西淀川公害とは
公害の発生と被害
大阪の中心部に近い西淀川は、都市に住む人々の食べ物をつくる農業、漁業の町として栄えました。 産業革命以降、阪神工業地域の一地域として工場が建設されます。尼崎市と此花区には大きな工場が立ち並びましたが、西淀川には中小の工場です。 また、西淀川は大阪と神戸をつなぐ場所に位置するため、大きな道路も数多く建設されました。戦争による空爆で大きな被害を受けましたが、戦後復興期から高度経済成長期にかけて国と企業は利益優先人命軽視で工場を操業しました。 その結果、西淀川で公害が発生し多くの人が苦しんだのです。 公害は、(1)大気汚染(2)水質汚濁(3)土壌汚染(4)騒音(5)振動(6)地盤沈下(7)悪臭の7種類ありますが、全ての公害が西淀川地域であらわれ、公害のデパートのようでした。 特に大気汚染はひどく、地形的に大阪湾の一番奥に位置しているために尼崎と此花・堺の大工場の煙が西淀川に集まります。 また、道路を大型ディーゼル車の排気ガスと工場の煙が混じりあう複合大気汚染となりました。 1960年ごろから工場の燃料が石炭から石油に変化し、石油を燃やす時に出る汚染物質の硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)、浮遊粒子状物質(SPM)が呼吸器系の健康被害を引き起こし、住民の多くが病気になり苦しんだのです。 1969年には公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法(のちの公害健康被害補償法)の大気汚染公害指定地域となり、ぜん息患者は公害病患者として認定され、医療費が救済されました。 これまでで西淀川区だけで累計7000人を超える人が公害病に認定されています。
西淀川公害裁判とは
西淀川の大気汚染がひどいことはみんなが知っているが、隣の尼崎や此花からの「もらい公害」のため、裁判で勝つのは難しいという意見が弁護士の中では一般的でした。 しかし、公害改善と患者の窮地を救うために西淀川の公害患者は裁判を望み、弁護士会に働きかけて「勝てるはずがない」裁判に踏み切りました。 弁護士の多くは弁護士登録前の研修で西淀川公害の苦しみを見て、なんとか力 になりたいと裁判に関わった若手弁護士でした。 争点は西淀川で汚染物質を環境基準以下にすることと、公害患者の損害賠償でしたが、提訴直後に争点の根拠としていた二酸化窒素の環境基準を国は2~3倍に緩和し、経済界は公害健康被害補償法の大気汚染の指定地域を解除するように政府に働きかけ、1987年に公害患者の新規認定を打ち切るという「公害冬の時代」が始まり、裁判は困難を極めます。 726名という大人数で提訴したことや患者が病気と生活の苦しさを訴えて100万人署名を集め世論を味方につけた点がこれまでの公害裁判と違いました。 弁護士も世論を動かすために、共感してくれる人をネットワークでつないで共感の輪を広げていきました。 その結果、20年間かかった裁判では国と企業に勝訴をし、公害地域再生という新しいステージを切り開き、公害行政が後退するのを押しとどめたのです。
被告企業の事業所とその位置(クリックすると拡大します。) >>関連・参考文献
『西淀川公害の40年 維持可能な環境都市をめざして』2013年3月 |