あおぞら財団 西淀川区の史跡探訪
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西淀川区の史跡探訪

西淀川区の史跡探訪(日本市民スポーツ連盟・イヤーラウンド認定コース)

【コースの概要】 西淀川区は、かつて大気汚染による激甚な公害被害を受けた町でしたが、住民たちのねばり強い公害反対運動の結果、生まれ変わろうとしています。
古くから残っている町の史跡や、公害跡地に新しくできた矢倉緑地公園や大野川緑陰道路など緑豊かな市民の憩いの場、美しい高層住宅群や町並みなどをめぐるコースです。
【コースの紹介】

5kmコース

大東亜戦争被爆者鎮魂の碑~田蓑神社~光明寺~大野川緑陰道路

10kmコース

大東亜戦争被爆者鎮魂の碑~田蓑神社~光明寺~大野川緑陰道路~姫島神社~大和田下街道~大和田住吉神社~千船大橋

19kmコース

大東亜戦争被爆者鎮魂の碑~田蓑神社~光明寺~大野川緑陰道路~姫島神社~大和田下街道~福の町並み~福漁港~矢倉緑地~西島川自転車歩行者道~出来島水門~五社神社~大野せせらぎの里~判官松の跡碑~大和田住吉神社~千船大橋

【コース基地】 ローソン佃二丁目店(TEL:06-6471-8687)
【各スポットの紹介】

1)大東亜戦争被爆者鎮魂の碑

1945年6月26日白昼、左門殿川の左門橋南詰の防空壕に2トン爆弾が直撃し、53人が死亡するという惨事が起こった。2トン爆弾は、炸薬量が約1,500kg、炸薬率80~90%という、火薬が極めて多い爆弾である。大和田近辺にまで爆風が達したということである。戦後、地域の有志が寄付を募り、鎮魂碑と地蔵堂を建立した。西淀川区で最も注目される空襲遺跡である。

2)田蓑神社

佃漁民ゆかりの地。天正年間に徳川家康の摂津多田神社の参詣に佃の漁民が協力。これが縁となって、佃の漁民の一部が、江戸鉄砲洲に移住、江戸でも佃島の地名が残ることとなった。現在、双方の土地の人々が交流している。
紀貫之の歌碑「雨により 田蓑の嶋をけふゆけば なにはかくれぬ ものぞありかる」

3)光明寺

一休和尚の足跡、紀貫之の歌碑「ふる行きに 木々の梢をながむれば しろたえなれや みてくらのしま」

江崎記念館

1972年3月、江崎グリコ株式会社創立50周年記念事業の一貫として、従業員に創業の志を伝え、社業の発展に寄与するため設立されたものである。館内には創業以来の江崎グリコのあゆみに関する資料、製品・販促品をはじめ、創業者の江崎利一ゆかりの品々が展示してある。見学については、電話(06-6477-8352)で事前の予約が必要。

4)北向き地蔵

「子安延命」の北向き地蔵に、6月15日の大空襲の犠牲者への思いを込めている。「柏里子安延命地蔵縁起由来」として「昭和二十年六月十五日柏里校下は大空襲の猛爆を受け、多数の戦死者を出し、これら無名のみ霊をこの地にて荼毘に付し、当所出身者有志の浄財と喜捨にて此処に堂宇を建立せしものなり」とある。

5)槲の橋・野里の渡し跡碑

江戸時代には大坂から尼崎へ行く近道(脇街道)として、野里・佃・辰巳と三か所の渡しをわたる尼崎道が多くの人々に利用されたが、中津川を渡る最初の渡しが「野里の渡し」であった。
江戸時代の尼崎道の通過視点。尼崎道は老松町(大阪市北区)を起点として、浦江・海老江(福島区)から西淀川区内を斜行する形で、中津川・神崎川・左門殿川を渡し船で渡り、尼崎城下に至る。
当時の道案内「尼崎わき道行けば渡し三ツ 野里佃に神崎のしも」

6)「池永家」住宅

現在の野里は明治末期に新淀川が完成し、それまで野里の東を流れていた中津川が埋め立てられて地形が大きく変わった。
池永家は野里の渡し場に近く、船場の日常生活を支えた都市近郊農家のひとつである。2001年11月に登録文化財。私設資料館を開設している。

7)野里住吉神社

大阪府指定文化財の一夜官女祭。代表的な3形式の地車(だんじり)を保存。境内東側には、中津川右岸堤防の遺構がある。

8)あおぞら財団

西淀川公害訴訟の和解金の一部を基金として、公害地域再生のために設立された。平成8年(1996)9月、環境省から財団法人として正式に許可を受けた。

9)JR御幣島駅

平成9(1997)3月JR東西線開通。この駅の開設によって、御幣島駅周辺に高層集合住宅の建築が急増している。

10)大野川緑陰道路

激甚な公害によって汚染した大野川の延長6.2kmを埋め立てたあとに自動車道路(阪神高速道路「淀川右岸線」計画案の一部でもある)建設が構想されたため、中島水道・大野川緑地化推進委員会というという住民運動体が結成され、市当局の自動車道路化計画に対して、緑地公園計画化案を迫り、要求を実現させた。
道路整備の工事は、昭和46年度(1971)から昭和54年度(1979)にかけて行われた。散歩道として、健康づくりの場として親しまれ、区民にとっての数少ない憩いの場となっている。

11)姫嶋神社

万葉の歌碑「妹が名は 千代に流れん 姫嶋の 小松がうれにこけむすまでに」(河辺宮人)

12)福の町並み

福は漁師町であった。1995年1月の阪神淡路大震災の時には、かなりの被害を受け、長い間屋根にブルーシートがかかっていた。その後家屋の立替が進んだが、基本的に古い町並みは変わっていない。

13)福漁港

大正初期から昭和初期にかけて最盛期を迎えた漁港で、海での漁はせず、主として淀川で漁をしていた。施網を使い、イナ、ボラ、スズキなどを獲り、淀川でのシラウオ漁は有名であった。鰻獲りは福町専門。福地区が貝類もよくとれ、「貝の福」として有名であった。現在も数件が漁にでている。

14)矢倉緑地公園

江戸時代に京都の矢倉九右衛門が開発した矢倉新田。その後水害や公害、地盤沈下により海没。現在は埋立地。平成12年(2000)には住民運動の成果もあり、矢倉海岸一帯が緑地公園として整備された。同年9月オープン。
大阪府内唯一の自然海岸で、干潟には貴重な生物が生息しており、渡り鳥の滞留地にもなっている。敷地は24ヘクタール。

15)阪神高速道路大阪湾岸線

1981年5月開通。

16)旧川北小学校

西淀川区内で最も早い創立。1972年に百周年を迎えた。その間、水害や地盤沈下による被害で校舎は5回移転、校名も7回改称した。大雨の時は、川が氾濫して運動場で魚をすくうという風景も見られた。西島川との差をみることで、地盤沈下の跡を実感できる。

17)出来島水門

西淀川区内の住民も意外に知らない、歩いて渡れる水門である。

18)五社神社

元禄元年に京都の人が創建。西淀川区では珍しく住吉系以外の神々も勧請されている。五体の神々を祭っている。昭和初期まで、五月端午の節句に牛の薮入りと称し、各農家は耕牛に五色の幣串(へいぐし)を立てて、首に縄をしめて美しく飾り、社頭に牛を引いて参拝した。

19)大野せせらぎの里

安定池を含め9700平方メートルの面積を有し、池の周囲には小鳥などが集まりやすいように常緑樹や落葉樹が植えられ、池には水生植物のほか、メダカなどの身近な魚も放流している。
全長350mの遊歩道や、せせらぎ、あずまやなどが配されている。
安定池は、水中の微生物や水生植物などによる自然の浄化作用を利用して、大野川下水処理場の処理水をさらに浄化する施設。

20)判官松の跡碑

源平の戦い(1185年)、源義経が平家追討のため船出したが、突風のため大和田の浦に打ち寄せられ、軍容を立て直したとされる池。大野川下水処理場正面にも顕彰碑が建立されている。

21)判官松伝承碑(大和田住吉神社内)

祭神は住吉四神。神社由緒によると、神功皇后が三韓からの還御のとき、この大和田の浦に船を寄せられたという伝説がある。神社は承和9年。
万葉の歌碑 詠人しらず「浜きよく浦なつかしき神代より千船の泊る大和田の浦」

22)佃ふれあい公園災害時船着場

2001年3月オープン

23)外島保養院跡の碑

1907年公布のらい予防法によって、1909年4月、外島(現在西淀川区中島2丁目付近。中島工業団地の一部)に開院したハンセン病の療養所。昭和初期、村田太院長のもとで、ハンセン病の患者の自治主義が進んだ。
1933年当局の弾圧を受け、院長の辞任とともに自治主義に終止符を打った。翌年9月の室戸台風によって187人の死者を出した。現在の邑久光明園は、外島保養院の後身である。

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