あおぞら財団 公害の歴史と環境再生の足跡を訪ねて
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公害の歴史と環境再生の足跡を訪ねて

公害の歴史と環境再生の足跡を訪ねて(日本市民スポーツ連盟・イヤーラウンド認定コース)

【コースの説明】 かつて激甚な公害を経験した西淀川区内の各地をめぐりながら、環境再生の取り組みが始まっている地域のスポットも訪ねます。
【コースのスポット】 ①JR御幣島駅→②歌島橋交差点→③あおぞら財団→④大野川緑陰道路⑤福町ゼロメートル地帯→⑥矢倉緑地公園→⑦阪神高速大阪湾岸線→⑧中山鋼業(株)→⑨旧川北小学校→⑩出来島水門→⑪大気常時観測局大和田西→⑫出来島小学校前測定局、光触媒の設置→⑬千北病院(現千北診療所)→⑭中島工業団地→⑮外島保養院跡の碑
【コース距離】 18㎞
【コース基地】 ローソン佃二丁目店(TEL:06-6471-8687)
【各スポットの紹介】

①JR御幣島駅

平成9(1997)3月JR東西線開通。この駅の開設によって、御幣島駅周辺に高層集合住宅の建築が急増している。

②歌島橋交差点

「道路公害」を問うた西淀川公害訴訟のシンボル的な場所である。国道2号と府道の交差に市道が合流した5差路。昼間(午前7時から午後7時)の一日交通量は約4万4000台と府内有数で、歩行者も約1万4000人。

1998年の西淀川公害訴訟の和解条項に「歌島橋交差点の改良」が盛り込まれたのを受け、国が同年から地下横断道路建設を開始した。

国の地下歩道一本化方針に住民側の反発が起こって、国と原告らで協議する「連絡階」で議論を続けている。まちづくりを考える上で重要な地点である。

③あおぞら財団

西淀川公害訴訟の和解金の一部を基金として、公害地域再生のために設立された。平成8年(1996)9月、環境省から財団法人として正式に許可を受けた。

④大野川緑陰道路

激甚な公害によって汚染した大野川の延長6.2㎞を埋め立てたあとに自動車道路(阪神高速道路「淀川右岸線」計画案の一部でもある)建設が構想されたため、中島水道・大野川緑地化推進委員会というという住民運動体が結成され、市当局の自動車道路化計画に対して、緑地公園計画化案を迫り、要求を実現させた。

道路整備の工事は、昭和46年度(1971)から昭和54年度(1979)にかけて行われた。散歩道として、健康づくりの場として親しまれ、区民にとっての数少ない憩いの場となっている。

⑤福町ゼロメートル地帯

西淀川区の工業化のシンボル的な場所である。昭和初期に工業化が進展し、地下水のくみ上げによって地盤沈下が進んだ。河口部に位置しており、度重なる水害を受けた。

阪神・淡路大震災時にも家屋の損壊、液状化現象など多くの被害に見舞われた。

⑥矢倉緑地公園

江戸時代に京都の矢倉九右衛門が開発した矢倉新田。その後水害や公害、地盤沈下により海没。現在は埋立地。平成12年(2000)には住民運動の成果もあり、矢倉海岸一帯が緑地公園として整備された。同年9月オープン。

大阪府内唯一の自然海岸で、干潟には貴重な生物が生息しており、渡り鳥の滞留地にもなっている。敷地は24ヘクタール。

⑦阪神高速大阪湾岸線

1994年4月開通。

⑧中山鋼業(株)

合同製鐵(株)大阪製造所(西島1-1-2)、古河機械金属(株)大阪工場(大野3-7-196)、日本化学工業(株)西淀川工場(福町3-2-43)とともに西淀川区内の公害発生企業であったが、現在は各会社とも公害対策に努めて操業している。

⑨旧川北小学校

西淀川区内で最も早い創立。1972年に百周年を迎えた。その間、水害や地盤沈下による被害で校舎は5回移転、校名も7回改称した。大雨の時は、川が氾濫して運動場で魚をすくうという風景も見られた。西島川との差をみることで、地盤沈下の跡を実感できる。

⑩出来島水門

西淀川区内の住民も意外に知らない、歩いて渡れる水門である。

⑪大気常時観測局大和田西

西淀川区内でも大気汚染のひどい場所。2003年(平成15)秋に、PM2.5(大気中微少粒子状物質)の測定機器が設置され、測定が始められた。

⑫出来島小学校前測定局、光触媒の設置

常に、大気汚染度全国ワースト10に入る大気汚染激甚地点である。裁判和解後の汚染軽減のために小学校の前には、光触媒が設置されている。

⑬千北病院(現千北診療所)

1969年10月、千北病院創設。西淀川区内の患者会運動の原点ともいえる「大和田生活と健康を守る会」が中心になって、千北病院ができ、公害医療闘争のセンターとして機能した。1995年8月、新西淀病院がセンターとして野里に開設され、千北病院は診療所として再スタートした。

⑭中島工業団地

日本有数の大気汚染公害地帯である西淀川の外島地区への公害工場進出が、公害反対闘争の総結集をもたらした。

1970年7月、大阪市は外島埋立地を工業地区に指定し、大阪府知事が8月、正式に工業地区として指定した。

1972年、外島町は中島2丁目と地名変更され、中島工業団地と称されるようになった。

⑮外島保養院跡の碑

1907年公布のらい予防法によって、1909年4月、外島(現在西淀川区中島2丁目付近。中島工業団地の一部)に開院したハンセン病の療養所。昭和初期、村田太院長のもとで、ハンセン病の患者の自治主義が進んだ。

1933年当局の弾圧を受け、院長の辞任とともに自治主義に終止符を打った。翌年9月の室戸台風によって187人の死者を出した。現在の邑久光明園は、外島保養院の後身である。

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