あおぞらイコバ 福でみせ

2013年3月24日 エルモ西淀川

「福の漁港どんなところ?あおぞらイコバ福でみせ」を開催しました。
大野の漁師の北村泰規さんがとってくれたボラはフライに、北村英一郎さんがとってくれたイカナゴは佃煮になって、みんなで食べながらお話しを聞きました。



ikoba: image 1 0f 3 ikoba koba: image 2 0f 3 ikoba koba: image 3 0f 3 ikoba

 海の漁師もおれば、川の漁師もおる。それぞれの得意分野があるんや。

画像の説明

北村栄一郎(49 )
西淀川区大野在住。小学1年生の頃、漁師の父親の手伝いをしたのが漁師のはじまり。中学生の頃から夏場は毎日、漁を手伝う。大阪市漁業協同組合 組合長。

北村泰規(73 )
西淀川区大野在住。代々漁師の家に育ち中学生の時から漁に出る。以前は海、今は川の漁師。2年前よりカラスミの出荷を始めた。大阪市漁業協同組合代表監事。

川の漁業と海の漁業

「大阪港の漁業いうんは、川を上る漁業と海に出ていく漁業が昔からありましてん…」そう語るのは、北村英一郎さん。55名の組合員で構成される大阪市漁業協同組合の組合長だ。英一郎さんは海一筋の漁師さんで、今朝も明石海峡よりでイカナゴを捕ってきたという。

「川を上る漁業いうんは、刺し網とかシジミとか、簡単な道具で魚を捕る漁業。海に出ていくのは、底曳きとか船曳きとか、川の漁業と全然交わらない形なんです。で、川で働く人は川で、海で働く人は海で…と棲み分けをするような漁業をやっとるんです。まぁ、大半は川。条件として川が多い。ウナギとかシジミは福の漁師さんが結構やってはる。刺し網とか網類の方は大野の漁師さん…やっぱり地域性があるわけです」

昭和24年に水産業共同組合法に基づき大阪市漁業協同組合が設立され、許可漁業に変わるまでは、漁場も魚種も制限する取り決めはなかった。英一郎さんのひいおじいさんは広島でトリガイをとっていたという。

「今はね、魚捕るのにまず許可、知事の許可がいりますねん。だから、私がイワシ捕りたい言うたかて、その許可が降りるかいうたら100%降りない。底曳きにしても100%降りない。それから刺し網でも、囲い刺し網は、もう降りないとかね、その魚によって決まってくるから…まぁ簡単に言うたら、運送業界でタクシーもあれば、観光バスもあればトラックもあるっていう感じで、その許可をもらったもんしかできない。今、漁業いうんは、何でも捕ったらええと思われてるんやけども、今の漁業は資源管理型いうて、きっちり休みの日を決めるとか、操業時間を決めるとか、解禁とか出漁時期を決めるとか、全部管理されてます。そやから、昭和の終わりぐらいまでやったら、年間2000時間くらい働いていたやつが、今1000時間くらいしか働けへん。自由が利かないんです。」

これらの決まりごとは、同じ漁場を利用する同業者で決めるという。英一郎さんも大阪湾で船曳き漁をする約70統のグループと、兵庫県のグループで毎年取り決めをしているようだ。


西淀川の漁業は歴史がある

一方、「大阪の漁業いうたら、我々西淀川は特に歴史が古いんです」そう話すのは、北村泰規さん。昔は海の漁師をしていたが、近年はもっぱら川が専門だ。大和川の半分から神崎川の半分が、大阪市漁業協同組合の漁業権であったことから、今も大和川まで漁に出ると言う。

歴史を紐解くと、1600年頃、徳川家康が摂津多田神社へ参詣の際、佃村、大和田村において神崎川の渡しを行った功から、江戸城への魚献上を務めることとなり、この役により全国規模での漁業特権を獲得。1644年に、両村の一部の村民が江戸に移住、幕府より貰い受けた土地が今の佃島のようだ。全国どこでも漁ができるとはいえ、他の海に行けば、その地の漁師といさかいがあっただろう。

しかし泰規さんは、「佃の漁師はやね、もめ事が生じてもやね、全面勝訴…まぁ、言うたら裁判にかかっても必ず勝つようになってた。そりゃぁ、徳川さんのお墨付きやから格が違うもんね…言うても、これは、大和田・佃の漁師だけ。わしら、大野の漁師は何もない…」と豪快に笑う。


大阪湾の漁業いうんは、稲作みたいなもん

再び英一郎さんが口を開く。

「大阪湾の漁業いうのは、農業で言うたら稲作みたいな感じ。要するに、水田というか、底をうまいこと耕して餌を増やして、魚を捕るというのが、ボクの感覚では水田のイメージの漁業。磯場で海女さんとかが磯付の魚を捕るっていうのは畑。ミカンとかリンゴとか実のなるようなものの捕り方なんちゃうかな…。一番いい例をいうと、ウナギ。昔は淀川の上流には、巨椋池のようにウナギが棲みやすい環境がぎょうさんあったんやけど、今はもうないでしょ?

ということは生活する場所がないんです。海と陸を比べた時に、今、海の方は粒子が細かくなってきてドロドロになってきているわけよ…。みんなは背丈以上の家があるから住めるけど、もし家が犬小屋やったら住めへんやろ…ということは、棲む家がなくなった魚はどっかに行かないとしゃーないわけ…つまり大阪湾も、それなりの砂状の粒子があれば、粒子にあった魚がつくんやけど、粒子が細かくなって、家がなくなってきてるわけ。そやから棲みにくくなってる。海は陸域の鏡であって、陸域からの養分が海に入ればそれだけ海も豊かになるんやけど、今はもう下水処理とかで海に入ってくるもんがカットされているから、漁師から言うたら栄養がない。昔は、『台風で風がきつかったら、でんぐり返しして養分があがってきて良い』と言われていたんよ。」

雨が降ると陸域の養分が染みだすため、雨の多く降る年の漁は、案外安定するようだ。


魚はおるねんけど、売れない時代やった

先祖代々漁師だという泰規さんが中学を卒業した頃は、ハマグリもアサリもいる時代で魚はかなり獲れていた。しかし、西淀川の大気汚染が激しかった頃、海も汚染が進み、十年ほど漁師をやめたという。

「工業廃水があった頃は、油臭い魚いうて、魚はおるねんけど、売れない時代やった。それから、昭和40年代にはPCBが問題になって大変な時代があった。でも、今はそうじゃない。海底にたまっていたヘドロ、そんなのは以前と違いますからね。今はもう、重金属もないしね」と、今の大阪湾の様子を語る。

同時に、市民がもつ大阪湾のイメージは、未だに悪いままであり、大阪産の魚を毛嫌いすることへの憂いを吐露する。「PCBでボラがずいぶん嫌われたけど、以前はねボラかて、煮付けもし、各家庭で、刺身もしてたんや。」と泰規さん。

「ボラは美味しいよ。みんな毛嫌いしてるだけ…中東とかアフリカとかの訳のわからんところの魚食べるくらいやったら、絶対ボラの方がおいしい。いや、怖いいうても、日本のもん食べんと、みんな輸入のもん食べてるのが、不思議でしゃーない。」と笑いながら英一郎さん。

「西淀川は5世紀頃、天皇即位の時に禊の神事をしたようなところ。独自の歴史がある。そやから、みんなが自分の地域のことを知って、地元の歴史や文化を再認識して、その土地で将来、何をしていかないかんか、何を残していかなあかんかってことを議論していくべきや…そう思います。」最後に言われたこの言葉が胸に響いた。

2013年2月27日 大阪市漁業協同組合事務所にて聞き取り




どこにあるの?福地区

とは縁起のいい地名ですよね。
正保元年(1944年)に開発されたと言われています。昔から漁業を生業とする人が多い土地です。明治期に行われた淀川改良工事によって、福村の土地の大部分が新淀川となってしまいました。昔は対岸の伝法まで地続きだった…今では想像がつかないですね。


大きな地図で見る




漁業ごよみ

  • いかなご
  • スズキ
  • シジミ
  • カラスミ