日本の大気汚染公害の歴史
煙の都の誕生
明治維新以降、政府の政策にもとづき、機械化による工場での大量生産が始まりました。その中で「公害」が社会問題になっていきました。特に、都市では工業の発展が急速で、ばい煙による大気汚染問題がもっとも強くあらわれ、地域の住民全体に被害を及ぼしました。
日本で最初にばい煙問題が深刻化したのは大阪です。一八七○年代から八○年代にかけて、大きな工場が次々に造られ、大阪は工業都市として発展していきました。その頃の大阪を表現するのに「煙の都」という言葉があるほどでした。
公害の広がりとともに、それに反対する人たちが早くから現れたのも大阪でした。
まず、都市周辺部に住む、農業・漁業で働く人たちがいます。工場から出る大気汚染や水質汚染が原因で、農作物の収穫に影響が出た、魚が採れないなどの損害を受けた時、公害の原因である工場の操業中止・移転と被害に対する損害賠償を求め、激しく行動しました。
次に、地元有力者、地主、商店主などです。被害があいまいだったり、公害の原因がどの工場かはっきりとわからない場合でも、自治体や関係機関への陳情活動を行いました。
更に大正期には、環境汚染や破壊が慢性化するようになり、専門家、学生、弁護士、行政担当者、財界有志などの中から公害反対運動を起こす人があらわれました。そういった人たちの運動によって、一九三二年(昭和7)には、大阪府令として日本で初めての「ばい煙防止規制」が発令されるという成果を生みました。
しかし、一九三一年(昭和6)の満州事変を機に、軍需産業を中心として重化学工業の工場の拡張・新設が相次ぎました。「浪費節約」「資源愛護」のスローガンのもと、ばい煙防止運動は戦時体制の中に埋もれていってしまいました。
「高度経済成長」と公害
戦災と敗戦によって、日本の工業は大きな打撃を受けましたが、一九五一年(昭和26)の朝鮮戦争を機に復興が急ピッチで進められ、それに伴って一九五○年代の半ばには、再び公害問題が指摘されるようになりました。
一九六○年(昭和35)十二月、政府は国民所得倍増計画を発表、一○年後の一九七○年(昭和45)には国民総生産を二倍に引き上げるとしました。この計画は、四大工業地帯をつないで帯状に工業地帯を作り(太平洋ベルト地帯構想)、効率的に工業化を行おうというものでした。その結果、国民総生産は計画の一・七倍という実績をあげましたが、一方で自然環境が破壊され、工業地帯では深刻な公害が多発することになりました。
死ぬよりつらい苦しみ
高度経済成長の中での大気汚染は深刻でした。被害の深刻な地域では、時には汚染のため五○メートル先が見えない時もあったと言われています。
こうした中で、深刻な呼吸器障害の患者がたくさん出るようになりました。
大気汚染をひきおこす主な物質はSOX(硫黄酸化物)やNOX(窒素酸化物)です。人の鼻・口から肺までの通路は、細菌ウィルスなどが肺に入るのを防ぐ線毛でおおわれています。SOXやNOXなどの刺激物はこの線毛を破壊したり、炎症を引き起こす性質をもっており、その結果、病原菌やウィルスが簡単に体内に入り、深刻な呼吸器障害を発生させます。これによって「気管支ぜん息」「慢性気管支炎」「肺気腫」「ぜん息性気管支炎」などの病気が起こります。
太平洋沿岸部分の工業地域を中心に、全国各地でこうした呼吸器疾患患者がたくさん出ました。患者の多くは「死ぬよりつらい」と言わせる程の発作に苦しみ、学校にも仕事にも行けないという状態に追い込まれることになりました。
深刻化する公害に対し、こうした中で、患者や医療機関関係者の運動を背景に、自治体独自に患者の医療費の自己負担分を企業からの拠出金でまかなう制度が尼崎市、川崎市、四日市市などでつくられました。しかし、これは生活を補償するものではありませんでした。公害によって健康被害を受けた人たちが生活補償を含む救済を求めるには、民事裁判で損害賠償を要求するしか手段がありませんでした。四大公害裁判のひとつで、一九六七年(昭和42)に提訴された「四日市大気汚染公害裁判」はその例です。
やっと国が動きはじめた
全国的に公害反対運動が高まる中で、一九六七年(昭和42)に「公害対策基本法」が成立し、健康被害を未然に防止し、地域全体の汚染を総合的に規制していくことが決められました。
これに基づき、一九六九年(昭和44)、「公害にかかわる健康被害の救済に関する特別措置法」が成立しました。四日市市の一部、大阪市西淀川区、川崎市の一部などが公害地域に指定され、その地域の住民で公害病と認定された健康被害者に対して、医療費の自己負担分についての補填が始まりました。しかし、健康被害によって生じる社会的・財産的・精神的な損失、慰謝料など生活全体にかかわる被害に対して補償するものではありませんでした。
一方、この制度の成立は、それまで自分は公害患者であるということを知らなかった人に、居住している地域が公害地域であり、大気汚染公害が原因で健康被害を受けていることを知らせることになり、各地で公害患者運動が広がるきっかけとなりました。
その後、七一~七二年には公害の企業責任を断じた四大公害裁判の判決がつづき、七二年にはいわゆる「無過失責任法」(大気汚染防止法及び水質汚濁防止法の一部改正)により、公害発生の原因をつくった者は、故意・過失にかかわらず責任を免れることができないとし、汚染者費用負担原則(PPP)を明確にしました。また、民事責任をふまえた損害賠償を補償する制度について検討することになりました。他方、尼崎市、大阪市、四日市市、川崎市では、自治体独自の大気汚染被害者の救済制度ができていました。こうした制度の流れを受けて、公害健康被害補償法が成立することになりました。
広がる公害患者の会運動
公害患者の健康被害の悲惨さとそれにともなう生活の苦しさは、医療費の負担だけで救済されるものではありません。特に公害患者と直接むきあう、医療現場で働く人びとはそのことをもっともよく知る存在でした。そんな医療関係者が公害患者を支援する形で、「公害患者の会」が全国各地で結成されていきました。
各地の公害患者の会では、公害発生の仕組みや公害患者をめぐる制度の学習会や相談会を行いながら、自治体と懇談会をもったり、要望書を提出するなどの活動を展開していきました。
さらに、各地の活動を交流し、それぞれの問題や課題について話し合い、各地で解決できないことに関しては、共同で環境庁や関係省庁に要望できるよう、一九七三年(昭和48)に「全国公害患者の会連絡会」が結成されました。
こうした各地や全国規模での活動は、国や自治体による健康被害補償制度、健康回復事業、公害対策などの取り組みへとつながっていきました。
一九七二年(昭和47)の「四日市大気汚染公害裁判」の勝訴や各地の公害患者の会を中心とした活動も大きな力となり、一九七三年(昭和48)に公害健康被害補償法(公健法)が成立しました。これによって、公害病と認定された人は、医療費だけでなく一定の生活補償を受けられるようになりました。その費用は汚染物質の排出割合に応じて、全国各地の企業から集めることになりました。しかし、公害患者にとっては、地域で公害をひきおこした企業の責任をあいまいなものにするという不十分さがありました。
公害対策の後戻りは許さない
一九六○年代からの世論の盛り上がりに加え、公健法による負担費用を軽減させるため、企業の公害対策や低硫黄重油の使用などが進み、硫黄酸化物を中心として大気汚染状況は改善されていきました。
そして一九七○年代後半からは、公健法の費用負担者である財界・企業からは公健法の縮小・廃止を望む声があがるようになってきました。
こうした動きに対して、公害対策の後戻りを許さず、企業の責任を明らかにするために、各地の公害患者の会が立ち上がりました。
一九七七年(昭和52)から八三年にかけて、千葉、大阪西淀川、川崎、倉敷水島などにおいて、公害認定患者として認められた地域住民が大気汚染裁判を起こしました。これは、健康被害の原因がどこにあるのかを司法の場で明らかにすることにより、加害者であると認められた者の責任で、公害対策と公害患者の健康被害に対する補償を行わせ、公害行政の後戻りをくい止めようとするものでした。
しかし、被害者や日本弁護士連合会などの多くの人たちの反対にもかかわらず、環境庁は公健法を改定し、一九八八年(昭和63)三月をもって公害指定地域(第一種)を全面解除し、公害患者の新規認定業務を打ち切りました。こうした動きに抗議する形で、一九八八年に尼崎で、八九年には名古屋南部地域で新たに大気汚染裁判がおこされました。
増え続ける公害病患者
「大気汚染状況は全般的に改善された=新たな公害患者を生まない」との見解から、公害指定地域は解除されましたが、これは、その後に発症した公害患者を救済しないことを意味しました。
しかし、その後も新たにぜん息などの患者の数は増えつづけています。
公害指定地域が解除されて以降、東京都、大阪市など十二自治体では独自の医療費助成制度を設けていますが、その適用を受けている人は、九六年三月末で公健法の認定患者にせまる七万三○○○人を越えています。これは、ばい煙などによる大気汚染の原因となっていた工場からの硫黄酸化物(SOX)、粉塵による汚染は一定改善されたものの、爆発的に増えた自動車、特にディーゼル車の排ガスに含まれる窒素酸化物(NOX)、浮遊粒子状物質(SPM)等による汚染が深刻化したことによるものです。
大気汚染の事実は曲げられない
一九八八年(昭和63)十一月、千葉川鉄公害訴訟において原告患者側勝訴の地裁判決が下り、一九九二年(平成4)八月には、企業との間で和解が成立しました。
大阪西淀川公害訴訟においても、一九九一年(平成3)三月、原告患者側勝訴の地裁判決が下りました。しかしこの時は、道路を走る自動車から排出される汚染物質と健康被害との因果関係は認められませんでした。
一九九五年(平成7)七月の西淀川判決(二~四次)では、健康被害と自動車から排出される窒素酸化物による大気汚染の因果関係を初めて認め、西淀川区内を通る幹線道路の設置・管理者である国と阪神高速道路公団に責任があるとして、原告勝訴の判決を下しました。
一九九六年(平成8)に提訴した東京大気汚染裁判では、「道路公害」の責任として国・東京都・道路公団とともに自動車メーカーを被告として争っています。原告のなかには、未認定患者も含まれています。
また、一九九八年(平成10)八月の川崎公害訴訟判決では、現在の大気汚染下での自動車排ガスにより、健康被害が生じることを認め、一九八八年の公健法の改定以後に発病した患者の損害賠償をも認める画期的な判決となりました。
公害の街の再生をめざして
公害によって苦しんできた人たちには、公害発生の責任を明確にすることによって、加害者に被害者を救済させると同時に、「公害病の苦しみを子や孫に二度と味あわせたくない」との願いを実現するため、自分たちの街を公害のない、住みよいところに再生したいという願いがあります。
そういう要望により、全国でいろいろな「まちづくり」活動が進められています。大阪西淀川区、尼崎市、倉敷市の公害患者たちは「こんな街がいいな」という『再生プラン』の提案をあらわしたイラスト地図をつくっています。小川の流れる散歩道、市民農園、川をわたる船、にぎわいのある商店街など、地域の特徴をいかしたアイデアに、病気とたたかいながら長年くらしてきた街への思いや、次の世代の子どもたちには健康であってほしいという希望が込められています。
西淀川公害患者と家族の会の取り組みは、これら「まちづくり」活動にとって、先駆的なものとなりました。西淀川公害裁判の被告企業にたいして「まちづくりへの協力」を求める『西淀川再生プラン』をつくり、一九九一年(平成3)から六回にわたって提言を発表し、住民と企業、行政がお互いに協力しあえる関係づくりを提案しました。
一九九五年(平成7)三月、西淀川公害裁判は企業との間で和解が成立。その解決金の一部を使って、一九九六年(平成8)九月に再生プランを具体的にすすめる「財団法人 公害地域再生センター(あおぞら財団)」がつくられました。
引き続き一九九八年(平成10)七月、損害賠償の取下げと引き換えに国・公団との間にも和解が成立、西淀川地域の道路環境の改善や、地域の再生に協力しあう道が開かれました。
この他、一九九七年(平成9)十二月、川崎、倉敷において、一九九九年(平成11)二月には尼崎市においても企業との間で和解が成立。和解金の一部を使って、地域再生の取り組みが進められています。