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私の生い立ち 2 子どもの頃の思い出


 私を知る人の中に{常用の上の勇ちゃん}とか(君さん)とそれぞれの呼び方をするが近所の人が今でも(勇ちゃん)であり、それ以外は森脇君雄ですが、もう一つ生年月日に問題があるのです。
  私のすべての経歴には7月10日が通用しているが戸籍謄本の上では7月17日になっている、どこが間違えたのか、誰が間違えたのかを調べてみると、小学校入学時に7月10日と当時の上有漢村役場が間違えそれを私も永い間、今でも続けているのです。海外渡航の時のパスポートのみが17日以外は認めてくれません。        

 1−2歳頃の話は父母から何も聞いていません。しかし岡山の政子姉さんから聞いた話では、生まれた場所は奥の納戸の部屋、首に臍の緒が絡み生まれるまで時間がかる、暗くなって、うぶ声をあげたのでひと安心。大きさは普通の児で生まれる。当時は産婆さんが居ないので,近所のお婆さんが立会う。臍の緒を長めに切ったので出べそと思っていたようです。五月節句などの祝いは今までの姉妹でしてもらった事がない程派手なもので羨ましく思っていた。父が軍隊に行き母は畑仕事で忙しく学校が終わると私の子守りをしていた。母一人の時は、家の中の柱に紐で括り、畑から度々見に帰り障子に指で穴をあけ元気な様子を見ていたそうです。
 田植え時期に覚えているのは牛の上に桶を乗せ、その中に入れられていた?そして泥田にタライを置いて中で遊ばして農作業をしていた。奥切れ(土地名)田の中に清水が沸き出る場所があり、又、そこは深い泥田で米が獲れずメダカが泳いでいた。ここでは桜の木に長い紐で括られていた。その木には(サクランボ)が実っていた。
  我が家は母屋(藁ぶき)蔵、(瓦ぶき)納屋(瓦ぶき)で130年程度経過している古い家屋でした。母屋には床の間、中の間、表の間、そして奥の間、納戸、囲炉裏の間。があり、中庭には冬でも氷の張らない水瓶、ほうろう釜、二つの火炊釜と木で出来た足ふみ臼(米、餅などを搗く)、手引き臼がありました。五え門風呂(注)は入り口に竹を並べて敷きしめられ、その下が便所。風呂水もその中に流されていて、それを畑の肥料にもしていた。納屋は2階建で下側の中に牛が飼われていた、離れに2部屋あった。
 蔵は米蔵と蚕などを飼う所と乾燥場に分かれていた。冬には吊るし柿とかき餅が二階の窓際に吊り下がっていた。いたずらすると家の真ん中にある大黒柱に括られるか?大かな扉のある蔵に入れられた。大黒柱は泣くだけ、蔵は始め暗いが、暗さには直ぐなれるし楽しみがあった。上にある吊るし柿を食べながら藁で床を作り、漫画や雑誌が読めた。
 床の間には神仏が別々に祭られており、鍵のかかったタンスがありその中に戦前は大小の日本刀が揃いで5本ほどあった。そのうち2本の刀を何回も持ち出し、近所の子供たちと一諸に竹薮で試しきりして刃をバラバラにしたのを親に見つけられ蔵に一日中閉じ込められた。あとの刀は戦時中に軍部に取上げられ、未だに返しては呉れない。小刃を1本は家に置き、死亡した時に胸の上に置く習慣があった。また、タンスから女性の人体解剖本を取りだし蔵の中に隠していた。
 日中戦争が1937年に始まり、36年には父親は満州兵役している。私が2歳の時で島子姉さん(長女)16歳で倉肪に就職していた?政子姉さんは12歳、正兄は7歳。は母一人で家族を守っていた。
 政子姉さんは小学校、尋常高等学校を卒業し体が小さく、弱いので井原町で被服工場に3年間でミシン一台貰う約束で働きに出る。小遣いとして70銭を貰い貯まったお金で映画を見るのが楽しみと話してくれた。 




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