にしよど八景 その4 福漁港
旅先で遭遇する漁港の眺めにノスタルジーを感じるのはどうしてでしょうか。ここ西淀川でも、どこか懐かしさを感じる景色に出会える場所があります。福の漁港-阪神なんば線「福」駅から西南に20分ほど歩いたところにその風景は広がっています。
西淀川での漁業の最盛期は大正から昭和初期にかけて。神崎川や今は緑陰道路になっている大野川の沿岸にも多くの漁船が水揚げしていました。しかし大気汚染がひどかった頃には水質汚濁もすすみ、魚が捕れるのに売れない時代が続きました。多くの人は船を降りましたが、その後の改善により近年では漁獲量も持ち直してきています。
淀川河口域を中心に、今でもイカナゴ、シジミ、スズキなどを漁獲しているとか。大阪湾や周辺河川の恵みを糧とする現役の姿です。
(絵:森脇君雄 文:片岡法子)
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にしよど八景 その4 福漁港
にしよど八景 第2号 田蓑神社
森脇君雄理事からにしよど八景の第2号が届きました。
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かつては「田蓑の森」といわれるほど緑豊かな地だった田蓑神社。燃え立つように茂る木々の葉に、今でもその名残を感じることができます。
境内の一角に立つ「佃漁民ゆかりの地」の石碑。2006年に水産庁が発表した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に大阪府内で唯一選ばれました。佃島や佃煮といえば東京が有名ですが、その発祥は摂津国佃村なのです。
1965(昭和40)年には、神社近くの大阪市立佃小学校と東京都中央区立佃島小学校が姉妹校になりました。33名の漁夫が江戸に移住してから400年近くの時を経て、毎年、新たな交流が結ばれています。
(西淀川区佃1ー18ー14)
にしよど八景 第一号 歌島橋
あおぞら財団理事の森脇君雄さんからの寄稿です。
森脇さんは西淀川公害患者と家族の会の会長で、西淀川公害裁判の中心的人物です。
患者会のニュースレターである『青空』に掲載することになった「にしよど八景」をあおぞら財団のブログにも掲載することになりました。
渾身の水彩画です。続編もお楽しみに。
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いよいよにしよど八景を始めました。
田舎で生まれ、育つたので自然田舎風景は頭に入っています。都会の景色は初めて描く事になり、物差角度が勝負、橋と欄干の流れを中心に娘の指導を受けながらこの課題に挑戦?特にビルと橋の影、桜、影、遠近感をどう表現するか難しかった?
[2014年4月]
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おまけ。
反対側の欄干の「歌島橋」表記はひらがなになっています。
ひらがなを森脇さんが模写したものです。
生い立ちの記6 中学から高校時代
中学から高校時代
中学は有漢と上有漢が合同し生徒数も多く、一年生が3学級(140人)ありました。小学校の時から隣村で遊び喧嘩もした。「上有漢の突っ張り学校、ぼろ学校」と言われ集団で鞭やチエン棒などもって殴り込みにいったこともありましたが、いざ、同級生として机をならべ勉強をしてみるとおとなしい子供たちでした。
1年から2年生の終る頃までは、ほとんど勉強はしなかった。学校には行くが遊ぶだけで、本も持っていった覚えがないぐらいでした。それでも何度か勉強をしようと思い教室に入ったのですが数学、理科、英語がついていけなく、国語はなんとかわかる程度、図画と習字は特別に出来ていた。必修科目ができなく教室にいても面白くなく、自然と時業を受けない日がつづきました。学校では有漢中の番長でもあった二つ年上の「辰巳屋の安さん」の下で餓鬼大蒋の真似ごとをしていた。担任は2年間、蛭田先生でこの人は学級を勉強の出来る子と出来ない子を分けて、特に出来ない子は放課後に残し暗くなるまで熱心に教えていたが、出来ない子にはこの授業は評判がよくなかった。私も残される組にいつも入っていた。
注1「1997年に有漢中学校創立50周年記念があり、同級生の加藤孝之君が有漢町長で教育長も同級生をしていた。記念講演に私と(村松弁護士)が呼ばれた。講演は中学時代の思い出と環境問題を取り上げました。今の蛭田先生はその後、校長にもなられ,教育長を務められるなど、町行政の上でも歴史を語る人として多くの人に尊敬されています。」又、「生い立ち」には歴史文献は蛭田先生(有漢点描)引用。
中学3年の時、有漢と上有漢に分かれ有漢中学校上有漢分校となり一つの学級になった。担任には宮城先生になり、少しは勉強をしました。お陰で卒業の時は努力賞を貰う。進学、就職のことが同級生のなかでも話題にあがるようにになりました。一緒に悪餓鬼をして遊んでいた子供のなかでも農家を継ぐ子、大工、左官、集団就職をする子、各自決めていました。私は決心が無いまま、先生に相談するとお前の成績では県立高校はこれから勉強の特訓しても「無理」と言われ、高梁市にある私立の日新高校を受ける事にしました。
恋心 恋心は、いつ、誰と、どこで、を思い出すのは難しい。小学校の頃になると同級生に胸が熱くなる子がいた。一緒にいたいが、いると、はずかしいので逃げる。その子は親戚で家が宿屋をしていた。何かあると良く遊びに行き「かくれんぼ」や泊り客で「富山の薬売り」のおじさんから紙風船などを貰っていた。
中学3年になると有漢から上有漢に移り、小学校の隅を借りて有漢中学上有漢分校(ヤドカニ分校)が出来た。女子新入生の中にテニス姿の美しい生徒がいた「話をしたい」「一緒に遊びたい」用事も無いのに遠回りして、その子の家の前を行き来していた。高梁に映画と松山城に一度だけ楽しいデートをした。その頃は手も握ることもでき無かったと覚えている。
当時、高梁には高校が4つもあり「県立高梁高校、高梁工業高校、順正女子高校、私立、日新高校」学生の街でした。有漢と高梁は20km程離れており通学には自転車が主な乗り物でした。バスも一日に2回ありましたが通学には利用していませんでした。
日新高校の歴史は明治37年7月に有漢村に「有漢教員養成所」として創立され、大正10年、その当時日本の代表的雑誌「キング」や「主婦の友」等で特集として「日本一の教育村」「無税無徴収の村」、として全国に記事が流れた。大正の初め有漢小学校長兼有漢教員養成所長に金岡助九郎が就任し、彼の教育えの強い熱情と信念により村の協力を得て、その規模を著しく拡大した、村の将来を考え女子教育の必要性を重視し村内の女子を無料で全員入学をさせ、教育費は全額村費で賄うものとして時代の最先端を行くものとして日本中の人々を驚かせた。「世界一の教育村」教訓例話辞典、大正11年には大阪朝日新聞、大阪毎日新聞、に載せるなど各紙が10年から14年に載せている。
山奥に珍しい共産村、税も取らず月謝もいらず、村民全部が中等教育をうけ、小使い、女子まで教員免許をもつと言われた文化村であった。
伯備線の終点が高梁になり、ここに岡山県高梁正教員養成所を設置する「大正3年」そして昭和5年に有漢教員養成所と高梁正教員養成所を廃止して岡山県高梁商業高等学校を設立しました。その後校名は3回変わるが昭和25年に日新高校になり現在に至っている。
「初代金岡助九郎、2代金岡武、3代金岡誠」で私の時代は2代目の校長で3代目は確か1学年上でした。