あおぞら財団 公害被害者運動を理解するためのQ&A
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公害被害者運動を理解するためのQ&A

Q1 大気汚染による公害の原因は何ですか?

大気汚染とは、工場などの排煙(固定発生源)、自動車の排ガスなど(移動発生源)に含まれる有害物質によって大気がよごされることをいいます。

これら発生源からの汚染物質を測定する施設として、一般環境大気測定局(一般局)と自動車排ガス測定局(自排局)があります。前者は、一般的な大気汚染状況を把握すること、後者は大気中の自動車排ガスの濃度を測定することをそれぞれ目的としています。

一般に代表的な大気汚染物質として知られているものには、浮遊粒子状物質、二酸化硫黄、二酸化窒素などがあります。

浮遊粒子状物質(SPM)は、大気中に気体のように長期間浮遊している微粒子で、その粒径が10ミクロン以下のものをいいます。単に浮遊粉じんという場合には10ミクロン以上も含めた浮遊する粒子をいいます。この物質の中には、水銀、カドミウム、亜鉛、銅、クロム、鉄、鉛などの微量重金属をはじめ、ベンツピレンやアルデヒドなど発がん性物質が多く含まれています。

粒径がさらに細かく10ミクロン以下のものとして、粗大粒子状物質(PM10-PM2.5)や微細粒子状物質(PM2.5)などがあり、後者は健康被害との関連性がより強いことが指摘されています。

この他、粒径が10ミクロン以上で物の燃焼または熱源としての電気の使用に伴い発生するものを「ばいじん」、物の破砕、選別などの機械的処理またはたい積によって発生し飛散するものを「粉じん」といいます。

硫黄酸化物(SOX)は、二酸化硫黄(SO2)、三酸化硫黄(SO3)、など硫黄の酸化物を総称して硫黄酸化物といいます。硫黄(S)を含む石油、石炭などが燃えることにより二酸化硫黄(亜硫酸ガス)が発生し、太陽紫外線により光酸化すると三酸化硫黄(無水硫酸)になります。呼吸器を刺激し、せき、呼吸困難、ぜんそく、気管支炎などを起こすほか、酸性雨の原因物質ともなります。

窒素酸化物(NOX)は、一般に一酸化窒素(NO)と二酸化窒素(NO2)を指します。主として化石燃料が燃焼することによって生じます。二酸化窒素は、工場や自動車などから大量に排出されます。単独で吸収した場合、二酸化硫黄は呼吸器の上層部に影響を及ぼす割合が大きいですが、二酸化窒素は水にとけにくいので容易に肺の奥深く侵入して影響を及ぼし、気管支ぜん息など慢性呼吸器疾患の原因となるほか、光化学スモッグ、酸性雨の原因物質となります。また、発がん性についても疑われています。

光化学オキシダントは、工場や自動車から排出される窒素酸化物と炭化水素類が、太陽の紫外線によって化学反応をおこして二次的に生成されるオゾンなどの強い酸性を持った物質です。いわゆる光化学スモッグの原因となり、粘膜への刺激、呼吸器への影響など人間の健康に悪影響を及ぼすほか、農作物など植物への影響も観察されています。また、二酸化炭素よりも強力な温室効果を持っていると考えられています。自動車から排出されるほか、炭化水素類を成分とする溶剤を使用する工場から排出されます。

その他、カドミウム、塩素、弗化水素、鉛など、微量でも人の健康や生活環境に被害を与える化学物質が、大気汚染規制の対象となっています。

○ppm:ごく微量の物質の濃度や含有率を表すのに使われ、100万分の1を意味する。

例)二酸化窒素1ppmとは、空気1m3に二酸化窒素が1cm3含まれている。

Q2 大気汚染による公害では、どのような症状の病気が出たのでしょうか?
また、どのようにして公害病と認めてきたのでしょうか?

1960年代、工場がたくさん立地する地域で、目がチカチカする、風邪が治りにくい、咳が止まらないなど、色々な症状を訴える人がたくさん出るようになりました。激しいぜん息の発作で亡くなる方が出るなど、深刻な症状におちいる人も少なくありませんでした。その頃、工場から排出されるばい煙が原因だと考えた人たちは「健康を守れ」と住民運動を起こしていきました。

しかし、その訴えはまともに取り扱ってもらえませんでした。行政は「工場の煙だけが原因とは思えない」とし、企業は「日本の繁栄を支えているんだから、仕方がない」といった対応でした。

そんな中、このような被害をまのあたりにした医療関係者や研究者らは、大気汚染のひどい地域の住民に、ある種類の病気が発生しやすいことを明らかにしていきました。

こうした住民や研究者らの長年にわたる地道な活動がみのって、公害病と認定されるようになりました。

Q3 大気汚染の公害患者の認定は、どのような基準で行われているのでしょうか?

公害病は大きく2つに分けることが出来ます。

1つは「特異性疾患」といい、水俣病やイタイイタイ病などのように、原因となる汚染物質との因果関係がはっきりしている病気です。

それに対し、原因物質を特定することが困難な病気は「非特異性疾患」と呼ばれています。気管支ぜん息など呼吸器系の病気は、大気汚染以外の原因でもかかることがあるからです。

その中でも、大気汚染が最も深刻な影響を与えていると思われる地域では、その疾患が多発していることから、因果関係を認め、「非特異性疾患」であっても公害病とみなして認定しています。

その救済のための全国的制度である公害健康被害補償法では、次のような前提条件を満たしている病人を対象者として認定しています。

①大気汚染が著しく、気管支ぜん息などが多発している地域(指定地域)で一定期間住んでいるか、あるいは働いている(曝露要件)こと。

②大気汚染物質との因果関係が疫学的に実証されている、次の閉塞性の慢性呼吸器疾患(指定疾病)であること。気管支ぜん息、慢性気管支炎、ぜん息性気管支炎、肺気腫ならびにこれらの続発性。

Q4 公害患者会などの患者の自主的な団体は、どのようにして作られてきたのでしょうか?

公害患者が、自らが公害病だと自覚し、名乗り出て団結していくのは非常に困難なことでした。

まず、呼吸器疾患による発作などの症状は、主に夜中や明け方などに現れることが多く、一見では他人にはわかりません。そのため人並みに仕事が出来なかったり、学校で活発に動けないことに対して、さぼっているなどという偏見がつきまといました。

次に、家族に対し迷惑をかけていることを心苦しく思い、社会的な活動に参加することを遠慮する傾向もありました。

さらに企業の城下町とされている地域では、患者会の運動に参加することは街の繁栄を邪魔する者と見られることも多かったのです。

加えて、患者に対する補償費に税金が使われているという誤解による偏見も生まれました。実際には大気汚染物質を排出している企業らが支払う拠出金によって賄われているのですが。

そういった中で患者が自らを公害病と自覚し、運動に立ち上がることが出来たのは

①多くの人たちによる、公害反対の世論が高まっていったこと。

②医者や科学者によって、公害と病気の因果関係が明らかにされ、わかりやすく説明されたこと。

③被害補償の闘いは、憲法(健康で文化的に生きる権利)にもとづく正当な闘いであるという、弁護士などの法律専門家の協力が あったこと。

④4大公害裁判など、加害責任を明らかにしてきたこと。などの背景がありました。

たとえば尼崎市(兵庫県)では、自ら公害病患者である主婦が、地域の市民団体や専門家の励ましを受け、こつこつと患者の家を訪ね歩き、患者団体をつくりあげていきました。こういった、地道な運動の中で、患者会は作り上げられていきました。

やがて公害患者の運動は救済制度を勝ち取っていき、制度として公害病患者が認められるようになりました。それにより、患者自身も安心して自らを公害病として認めることが出来るようにもなりました。

行政の側も制度の効果的な運用のために、患者側の利益を代表する団体の存在を歓迎するようになっていきました。こうして、公害患者の救済制度は、患者会が全国的に活動していく条件を広げました。

Q5 公害患者会は、患者にとって、どんなメリットがあったのでしょうか?

患者会は2つの大きな役割がありました。

まず、公害をなくし、公害患者の救済制度を守り、拡充する闘いを団結して進めていく運動体としての役割です。

公害健康被害補償法を作る運動を進める過程においては、全国公害患者の会連絡会を結成するなど、全国的な連携も作り上げました。全国組織の結成は、各地の運動を発展させる一方、国や自治体に対して統一した要求を行い、その実現を勝ち取っていくなど、運動を進める上での大きな原動力となりました。

次に、救済制度を具体的に知って活用していくと共に、同病者として悩みを分かち合い、助け合う互助団体としての役割です。

公害患者の救済制度の仕組みは複雑で、一般の人には理解しにくく、その手続きは非常に煩わしいのです。患者会では、制度について何度も繰り返し学び合い、患者同士で助け合ってきました。

また、ぜん息児童向けのキャンプや転地療養をはじめ、患者の療養活動を支援する取り組みを通じて、お互いの親睦を図っています。

Q6 公害患者の人たちは、病気を抱えながらも、どうして長い間、激しい闘いを続けることができたのでしょうか?

第1に、こんなつらい思いを子や孫たちに味合わせたくないという切実な願いが、闘いの原動力となりました。公害病の苦しみを一番よく知っているからこそ、公害をなくす運動にも先頭に立って頑張ることができたのです。さらに、お互いに励まし合っていける患者会を作ったことが運動を続ける力となりました。

第2に、様々な分野の専門家、市民の献身的な協力がありました。法律家、医師・医学者の果たした役割はたいへん大きなものがありました。市民では、地域の教育者、医療機関で働く人たち、労働組合、消費者団体、環境団体などの支援がありました。

第3に、自治体の役割がありました。公害反対や被害者の救済を求める世論の高まりを背景に、住民に最も身近な行政機関である地方自治体が調査に乗り出し、公害発生源となる企業の告発や、国に先駆けての公害病患者の救済事業や健康回復のための事業に取り組んできました。

第4に、公害健康被害補償制度の役割があります。これによって、一部とはいえ生活費が補償され、運動を支える金銭的な条件が作られました。

Q7 弁護士・法律家はどのような役割を担ったのでしょうか?

弁護士は自ら動くことが困難な患者に変わって患者の組織化を手伝い、運動の進め方を調整するなど、公害患者のために献身的に働き、公害患者を救済するとともに、制度の改善などに大きな役割を果たしました。

その献身的な活動の背景として、まず、日本の弁護法の特徴があります。弁護士法第1条は、「弁護士は正義のために活動すること」を義務づけています。クライアント(依頼者)の利益を最優先する、欧米の弁護士制度との大きな違いです。これにもとづき、弁護士会は社会正義のための取り組みを共同で進めています。次に、日本の弁護士は、個人経営の小規模な事務所の場合が多く、自らの裁量で活動できる条件があり、これらが社会的活動を行う基盤となっています。

一方、弁護士にとっても、公害患者と出会い、その生活実態を目の当たりにする中で、社会的正義を守るという使命をもった者として鍛えられていった側面があります。

Q8 医療関係者はどのような役割を担ったのでしょうか?

公害患者にとって、身近にあり献身的に地域医療に取り組む病院・診療所の役割は欠かせないものでした。献身的な開業医や、住民自らが出資して作り上げた医療機関などは、公害被害の実態を告発したり、公害患者を支援するなどの活動に積極的に取り組みました。

また、医師集団である保険医協会や医師会は、被害者救済制度の創設に重要な役割を果たしました。大阪市西淀川区の医師会は、自治体や国における補償制度の創設に力を尽くし、全国で最初に公害医療センターを創りあげました。

医療関係者が力を尽くした背景には、自由開業制度と国民皆保険制度を特徴とする戦後のわが国の医療制度があります。これにより、住民は医療機関にかかる時の金銭的負担を軽減することができるようになり、医療機関にとっても安定して、患者の治療にあたることができるようになりました。このことは、医療機関による公害患者の掘りおこしを押し進めることになりました。

また、自治体が国に先行して実施した公害患者の救済対策は、医療費の患者自己負担分を補填する形で導入されました。

Q9 科学者が果たした役割は、どのようなものがあったのでしょうか?

大気汚染公害問題は、産業政策や地域開発・都市計画、環境技術、気象などのいろいろな条件が複雑にからみあって発生しています。そのために、公害の原因や責任の所在の解明、対策には様々な分野の科学者による調査・研究が必要となります。

公害の被害の現実に即した科学者達の取り組みは、法廷の場などを通して、公害被害の原因究明や公害対策に貢献しました。

このような科学者による公害研究の進展、科学者と住民・被害者の交流を通し、1979(昭和54)年には「第1回日本環境会議」が開催されました。その後発足した日本環境会議(JEC)は、わが国の公害・環境問題に関わる科学者や住民・被害者の協力により、時々の公害・環境問題に対応した取り組みを行っています。

Q10 地方自治体は、どのような役割を果してきたのでしょうか?

地方自治体は、公害被害者との間で対立と連携を繰り返しながらも、基本的には公害患者の生活を支える重要な拠り所となってきました。

各地の公害患者団体は自治体民主化の住民運動に参加し、患者の要求を実現していく取り組みを進めてきました。

公害問題が深刻になっていた1960年代後半には、大都市部の首長選挙で住民団体候補が次々と当選しました。こうして誕生した民主的な自治体が、公害防止対策を強化し、国に先駆けて公害患者の救済制度を創設し、全国的な制度実現へと導きました。尼崎市、倉敷市、川崎市などでは、企業が拠出した資金をもとに、公害患者のために独自の転地療養事業も行いました。

当時、自治体では、企業誘致などの産業政策が最優先とされていました。しかし「西淀川公害特別機動隊」を組織して公害の発生源の調査を行い、悪質な企業に対して指導・勧告を行った大阪市や、自治体職員の労働組合の全国集会の中で公害問題を告発した四日市市など、地方自治体における公害対策の前進には、自治体で働く職員の誇りある、献身的な取り組みがありました。

Q11 公害健康被害補償制度は、どのような仕組みになっているのですか?

公害健康被害補償法は1973(昭和48)年に成立し、翌年から施行されました。

大気汚染公害病は、一人一人の患者についてみた場合、原因物質との因果関係を明らかにすることは大変困難なことになります。そこで同制度では、先行して実施されていた地方自治体の救済制度を参考に、以下のような患者の認定の仕組みを作りました。

  1. 一定以上の大気の汚染が生じ、その影響によって疾患が多発している地域を指定する。(第1種地域)。
  2. 第1種地域に一定期間以上すんでいるか、通勤しており、慢性閉塞性呼吸器疾患(慢性気管支炎、気管支喘息、ぜん息性気管支炎、肺気腫およびそれらの続発症)のどれかに罹っている者を大気汚染による公害病患者として認定する。
  3. 認定患者には①療養費、②障害補償費、③遺族補償費、④遺族補償一時金、⑤児童補償手当、⑥療養手当、⑦葬祭費の7種類の給付がおこなわれる。なお、障害補償費は、労働災害補償費などと同じように、労働者の平均賃金の8割を基礎に、障害の等級に応じて支払われる。
  4. 財源は、汚染者全体で共同して負担することとし、①給付の8割は、全国の大気汚染物質を排出している事業者から、硫黄酸化物(SOX)の排出量に応じて汚染者負荷量賦課金を徴収、②残り2割は、自動車の排気ガスによる大気汚染の負担分として、自動車重量税から引き当てる。

この制度により、公害患者の幅広い救済が可能となりました。また、加害者である事業者は、賦課金の負担を少なくするために、汚染物質の排出量を減らす努力を始めるようになり、公害防止技術の開発が進んだこともあって、SOXによる大気汚染は、飛躍的に改善されました。

ところが、政府は1987(昭和62)年に公健法を改訂、「公害健康被害補償予防法」と名称を変え、翌1988年3月をもって第1種指定地域を解除、その後の新しい公害患者の認定を打ち切りました。

Q12 公害健康被害補償予防法とは、どんな特徴があるのでしょうか?

1987(昭和62)年に成立した公害健康被害補償予防法は、それまでの公害患者に対する補償を中心とした制度から、健康被害の予防を含めた制度となっています。

その主な内容は、

①人の健康に着目し、健康の確保・回復を図る事業、

②環境そのものに着目し、環境自体を健康被害を引き起こす可能性がないものにしていく事業
とに分けられます。具体的な事業は下図のようになっており、事業の財源は、大気汚染物質を排出する事業者などからの拠出金と、国からの財政上の出資金により設けられた公害健康被害補償予防協会の基金の運用益によって賄われています。

この制度は、環境を改善し、健康被害が再び起こらないようにしたいという公害患者の願いが制度として実現したものではありますが、公害患者の新規救済を打ち切った「見返り」としては、対策の内容も財源の規模もあまりにも不十分で、増えつづけるぜん息患者、劣悪な環境などといった現実に対応できるものではありません。

Q13 今日の大気汚染裁判では何が争われているのですか?

戦後の日本経済は急速な成長を遂げましたが、一方では工場などが排出するばい煙、汚水などによって環境汚染が進み、とりわけ公害による健康被害の発生は重大な社会問題となりました。公害によって健康被害を受けた人々は、その責任の所在を明確にするために裁判を起こしました。いわゆる四大公害裁判です。

このうち1972年に原告勝訴の判決がくだった四日市公害裁判は、全国の大気汚染裁判の先駆けとなりました。判決では、大気汚染(硫黄酸化物等のばい煙)と健康被害の因果関係と、コンビナートを形成している複数の工場からのばい煙によって住民に健康被害が生じたこと(共同不法行為)を認めました。

四大公害裁判を通じて、公健法の全国制度や公害対策がうちたてられました。しかし、オイルショック以降、公害行政の後退がすすみました。こうした動きのなかで、改めて公害被害の現実と責任を明らかにするため、全国各地で大気汚染に苦しんできた公害病患者や被害住民が、二酸化硫黄、二酸化窒素、浮遊粒子状物質について、それぞれの環境基準を超える大気汚染物質の排出の差し止めと損害賠償をもとめて提訴しました。さらに、自動車から排出される汚染物質と健康被害との因果関係ならびに道路の設置・管理者である国・道路公団の公害発生における行政責任を追求しました。1996年に提訴された東京公害裁判では、自動車メーカーも被告になっています。