西淀川の災害記憶をまなぶ
西淀川区の過去の災害を知っていますか?
- 西淀川区は、室戸台風、ジェーン台風、第二室戸台風、阪神・淡路大震災などにより、繰り返し大きな被害を受けています。
- 防潮堤の整備などにより大きな水害は起こりにくくなっていますが、西淀川区は、大阪湾、淀川、神崎川と水に囲まれている上に、地盤沈下の影響で土地が低いため、いったん堤防が決壊すると大きな水害になります。
- 西淀川区は人口の流入、流出が激しいこともあり、過去の災害の経験があまり語りつがれていません。
表 過去の西淀川の災害(西淀川区史「第五章 災害と公害」より)
時代・年 | 災害 | 被害 |
---|---|---|
江戸時代 |
洪水 |
洪水回数66回(4年に1回程度)。 |
明治時代 |
高潮・洪水 |
大きな高潮・洪水回数は7回(6年に1回程度) |
大正6年(1917年) |
淀川大洪水 |
西成郡内広域にわたり浸水。 |
昭和9年(1934年) |
室戸台風 |
台風により高潮襲来。区内全域浸水。死者・ 行方不明者243人、全半壊流失516戸。 |
昭和25年(1950年) | ジェーン台風 |
高潮襲来。区内全域浸水。死者・行方不明者58 人、家屋の全半壊・流失計8,786戸。 |
昭和36年(1961年) | 第二室戸台風 | 高潮で神崎川氾濫、大和田・出来島・御幣島地区などで床上浸水。家屋の全半壊・流出500戸。 |
平成7年 (1995年) | 阪神淡路大震災 |
区内各地で液状化による不等沈下が起こり、家屋全半壊787棟、道路破損の被害が発生、103人が避難した。 |
第二室戸台風の経験談
- 第2室戸台風は、昭和36(1961)年9月16日に大阪を襲った台風です。
- 大阪における瞬間最大風速は50.6m/s、大阪湾の高潮はO.P.+4.1mに達しました。※O.P.:大阪湾最低潮位
- 西淀川区では神崎川が氾濫して大和田・出来島・御幣島では家屋のほとんどが床上浸水の被害を受け、罹災者は大和田小学校や西淀中学校等に避難しました。
- あおぞら財団では、2013年度に西淀川区の過去の災害(主に第二室戸台風)について、28名の方に聞き取り調査しました。下記はその聞き取り調査や文献から得られた経験談です。
◆水害は音が静かで、気が付いた時にはもう水がそこに!
- 近所の人たちは大和田小学校に避難していたが、うちは子どもがまだ6か月だったため、避難所に行くのには抵抗があり、家にいました。外が静かだったので、主人が外に様子を見に出て出ていきました。50mぐらい行くと、近所の人みんなが「水が来たぞー」と叫んでいました。そこで、70歳のおばあさん、6ヶ月と1歳半の子供と一緒に命からがら逃げました。(当時23歳、大和田在住、女性)
◆風が強くて這うように移動。強風時には瓦も飛ぶ
- 風がとても強くて、避難する時に這うように移動しました。消防署の横に道沿いにロープが張ってありました。そのロープを握り、消防署員の方が背中を押してくれて何とか移動しました。(当時31歳、大和田在住、男性)
- 風で屋根の瓦が紙のように散っていました。それにあたってけがをした人もいたようです。(当時41歳、大野在住、女性)
◆浸水すると、水に足を取られて前にすすみにくく
- 水が膝ぐらいまできていた中で、水に足がとられながら逃げました。道に寝かしてあった電信柱やゴミ箱が水と一緒に追いかけてきて、とても怖かったです。必死でどうやって逃げたのか思い出せないほどです。(当時23歳、大和田在住、女性)
◆逃げ遅れた高齢者を助け合いで救出
- 男性3名は78歳の老人がただ一人家に残っているのに気がつきました。水中を泳いで老人の家に行ってみると水は天井30cmまできており、老人が浮かんだ畳の上で虫の息の状態でした。直ちに天井を破り屋根に引き上げ救出しました。(第二室戸台風誌【大阪府、昭和37年3月発行】より)
◆避難所では物資が足りない
- 何も荷物をもたずに、大和田小学校にとにかく避難した。屋上で近所の人みんなと町が水に浸かるのを見ていた。僕は一晩だけ泊まったが、1週間から10日ぐらい小学校にいた人も多い。台風の当日、小学校には食べ物も毛布もなくて、あくる日になってやっと届いた。(当時31歳、大和田在住、男性)
◆避難所に行かずに自宅にいた人も
- 自宅は一尺ぐらい水に浸かったが、2階に避難した。当時、2階がある家は少なく、天井が落ちるかと思うほど近所の人がたくさんきた。1週間ぐらいいた。(当時41歳、大野在住、女性)
- 避難せずに自宅にいた。水に浸かっているところはテーブルや踏み台の上に畳を敷き、そこで生活した。(当時27歳、大和田在住、男性)
◆水がなかなかひかない。トイレに困った
- 一週間ほど水がひかなかった。水がひいたと思ったら、あくる日の朝にはまた水が浸かっていた。トイレは屋根越しにお隣に行って借りにいった。トイレにはとにかく苦労した。当時は水洗トイレではなかったので、浸水してくる水もとても汚かった。
(当時36歳、大和田在住、女性)
◆指定避難所以外には配給が届かない
- 福島女子高等学校(今の好文学園女子高等学校)に避難したが、指定の避難所ではないため配給がありませんでした。それを気の毒に思ったのか、高校の近所に住んでいた人たちが配給を分けてくれました。配給は、おにぎり、パンなど。毛布はありませんでした。(当時28歳、大和田在住、男性)
◆水害時の火事に「どうもこうもならん水攻め、火攻めや」
- 浸水中の廃品回収業者の倉庫で、火事が起こっています。現場はまだ胸までつかる水に囲まれて、消火活動も思うに任せず、約二時間半燃えつづけました。原因は、マッチの消しカスが塗料に引火して燃え広がったこと。店主は「どうもこうもならん。水攻め、火攻めや」とつぶやいていたとのことです。(産業経済新聞(昭和36年9月18日)より)
◆水がひいた後は掃除が大変、家財道具は泥だらけ
- 床下に汚いものがたくさんあって、掃除が大変でした。子どもが小さかったから床の上にムシロをひいたままではかわいそうだと思って、畳の下に石灰をまいて、早く畳を入れたらみんな腐ってしまいました。まだ床が湿っていたのです。(当時28歳、大和田在住、男性)