西淀川公害=資料の紹介(6)はじめて西淀川区民の健康被害を本格報道
※機関誌りべらで連載をしている所蔵資料紹介コーナーの転載記事です(りべら163号より転載)。
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ここに紹介する新聞記事は、『大阪新聞』1967年(昭和42)9月6日付。公害による西淀川区民の健康被害を報道したもっとも早い時期の記事と考えられる。この年4月に西淀中学校に赴任してきた荒木芳太郎校長は、学校の鉄板をボロボロに腐食させている大気汚染に驚き、各種の調査を行なった。そのなかに新聞などのスクラップ集があったが、この記事は、その中に綴じられていたものである。
記事は「よそごとでない 大阪の空」と見出しが打たれている。それは、この年9月に四日市ゼンソクで知られる四日市公害の被害者が裁判に訴えたことを知った記者が西淀川区の状況を改めて取材した成果であった。
「うちの学校では生徒に深呼吸をさせられない。深呼吸すれば、ゴミとばい煙を吸わせるからだ」というのが秋元実保健主事の話を聞いた上での記事の書き出しであった。この話に続いては、幼児期にゼンソクで苦しみ、やせ細っていくばかりであった体験を持つ中学1年生の不安、胸部の精密検査を必要とする生徒が増える一方の状況、市内平均よりもうんと狭い平均胸囲、60パーセントがばい煙によるとみられる慢性結膜炎の広がり、昨年から自衛手段として虚弱児クラスを編成したことなど、そのすさまじさが次々と記されていく。
さらに汚染は、香簔地区における電気炉操業に伴う煙害、酉島地区の真っ黒いススの降下などが記され、大和田小学校付近における亜硫酸ガスの濃度0.83PPMを超える汚染の記録、それに車の排気ガスなどがあり、通行中に昏倒した市民が出たとか、吐き気で真っ青になった児童の例などが紹介されている。
スクラップされた新聞の中からは、このような記事が出始めるとともに、西淀川区内の学校関係者からは、先に挙げた荒木校長とか、秋元実保健主事など、自覚的な人物が出始めてくる。公害を仕方がないとあきらめるのでなく、立ち向かおうとする人物と世論が形成され始めたのである。西淀川公害も、ようやく市民が活動する時期に入っていく。
エコミューズ館長 小田康徳