※機関誌りべらで連載をしている所蔵資料紹介コーナーの転載記事です(りべら166号より転載)。
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大野川緑陰道路の建設へ―憩いと落ち着きを求める住民運動の高揚―
人びとに憩いと落ち着きを与え、現在西淀川区民の誇りともなっている「大野川緑陰道路」。この広大な緑地帯の建設は、1970年(昭和45)10月13日大阪市が「阪北水路、歌島運河、中島水道、大野川を埋めて全面緑地帯とする」との意向を「緑地化推進委員会」に明らかにしたときほぼ確定した。
「緑陰道路」建設の運動は、1969年5月の「緑地化推進委員会」設立とともにあった。同会は、5月9日の第1回打ち合わせ会で「協力して運動をやろう」との趣旨のもと、当時の社会・公明・民社そして共産党の思想や政策上の違いを乗り越えて設立されたと言われている。彼らは最終的には2万人を超す署名を集め、それを基盤に、一丸となって大阪市に働きかけていった。代表の喜多幡龍次郎の周りには日赤奉仕団・工場経営者・主婦・総評西淀地区協議会・大阪市教職員組合西大阪支部・市労連西淀川地区協議会など、労組をはじめ多様な人びとが住民として集まった。かれらが運動を始めたきっかけは原料や製品の運搬手段としても、稲作の用悪水路としても用をなさなくなり、どぶとなって悪臭と不快の発生源と化していた水路の跡地が自動車道路になることを聞き出したことであった。彼らは、それは悪化した区内の自然環境をさらに悪化させるもので、住民にはそれを耐え忍ぶ義務はないとして、その計画を拒否した。そして、区内のすべての地域において人間らしさを取り返す可能性をもつ緑道建設を求めたのである。「全面緑地帯とする」との市の言明までは、運動を始めて1年半ほど。市政も市民の気持ちを無視できなくなっていた時代であった。
写真は1971年7月、九分通り全面的な緑地化が実現することが見えてきたときに発行されたビラである。そこには「全長6.2キロの河を埋め立て、幅20メートル~50メートルの緑地帯をつくる」と誇らし気に書かれ、「自分たち(住民)こそが市政の主人公である」との自信にみちた文字が記されている。
10月13日など、緑陰道路にちなむ日にはそこに出て、この時の住民意識・運動に思いを馳せてみてはいいかがであろうか。
エコミューズ館長 小田康徳