地元企業公害防止が生きる道

公害防止技術を高めて住民との共存をはかる

●1970年に西淀川が公害地域に指定されたことで、西淀川の企業も大きなショックをうけました。西淀川が公害地域であることが全国に知られ、働く人を集めることが難しくなったのです。「このままでは町全体がさびれてしまう」という危機感が広まりました。

●大阪市は1970年から西淀川区公害特別機動隊を派遣しました。その結果、硫黄酸化物の年間平均値は1969年が0.083ppmでしたが、1971年には0.051ppmまで改善しました。その活動に西淀川の企業は協力しました。企業の意識は変化して、西淀川の工場による公害が改善されていきました。

●西淀川工業協会は1973年、患者救済のために、西淀川区の企業101社から総額3億円にのぼる拠出金(汚染付加量賦課金)を集めて、大阪市に寄付をしました。これを財源として大阪市は「公害被害者の救済に関する規則」を制定し、西淀川区の公害患者に生活費を給付しました。

大阪市の取組み
技術コンサルタント制度
西淀川区の大気汚染濃度の変化
工場の汚染対策