写真「雲海と我が家」
私が小学校に入学した時1943年で第二次大戦の激戦中で成人男性はすべて兵隊にいっていて老人と女性、子供たちが生活をしていた時代でした。
それでも校庭には、チャーチル(英国首相)とルーズベルト「米国大統領」の藁人形を作り在郷軍人「傷痍軍人」の掛け声で婦人(国防婦人会)学童「小学4〜6年」は竹やりを手にして藁人形に向かって大きな声で、突け突け、引け引け、突っ込めと走っていました。
其の頃の学童は勉強をするより毎日が塊根と軍事訓練が日課でした、時には「在郷軍人査閲練習の日」があり校庭に集まり親達の猛練習を小陰から覗いていました。小学生全児童は神社に向かってラッパの音とともに、行進、駆け足をする、それが終わると山に入り炭小屋から炭俵を広い道まで運ぶ、又、田植えの苗についているずい虫取り、等をやりました。
防空訓練は頭に防空帽を被り、足にはゲ〜トルを巻き小さい子から順番に防空壕に入る練習を何回も繰り返しておこないます。学校や診療所など白い建物には黒い墨[釜戸の煤]を水で溶かし混ぜ合わせた物をべたべたと塗りたてて米軍機から攻撃を守るものと信じていました。
家庭では夜になると電球に紙を巻きつけ、上空から見えない工夫をしていました。空襲警報のサイレンは学校にあって鳴らす役目をしていた、炭焼きの火は消すことができなくどうしようもなかったようだ、蒜山で炭焼き中に爆弾を落とす例があった。思い出と言えば、弁当の時間で、冬などはスト〜ブで芋を焼く、餅を焼くそして皆で食べたこと、学校からもらった種で農作物の品評会があり運動場には白菜、大根、聖護院大根など並ぶ中で私の品が「大根の部」で2等賞になり、生まれて始めての賞でした。
小学生低学年が家で出来る手伝いは、水汲みと風呂焚き家畜(牛、ウサギ、鶏)を飼うことでした、水汲みと言っても今のように栓を捻ると水がでるのと違い、大平山からの湧き水なので水汲み場が遠く急な坂道を背丈と同じぐらいの水田子[桶]を天秤棒で担ぎ、何回か五右衛門風呂釜と水瓶に運ぶのも日課でした。近くに水車小屋かあり、6軒が共同で米搗きをしていたので当番の時などには水を見にゆき、その水車小屋の上にあるのが「長宗池」、何故か私はこの池が大好きだった。








1945年の秋のことでした、家の前には大きな柿木(御所柿)がありその木に登って下で待っている子供に柿を取って落としてやるのが学校帰りの日課でした。
私は、今年7月からあおぞら財団の専務理事をしています。本職は弁護士、西淀川公害裁判に携わったことから、あおぞら財団に関わることになり、現在は週2〜3日は財団事務所に通っています。諸外国では弁護士が環境NGOの役員を務めることは結構多いようですが、日本ではあまり例がなく、やって見たいこと、やりたいことは多くても、何ができるかはこれからです。現実の公害発生や環境破壊に対する裁判等にも取り組みながら、環境再生、地域再生の仕事もと少々欲張りですが、新たな挑戦に意欲を持って取り組んでいます。
私を知る人の中に{常用の上の勇ちゃん}とか(君さん)とそれぞれの呼び方をするが近所の人が今でも(勇ちゃん)であり、それ以外は森脇君雄ですが、もう一つ生年月日に問題があるのです。
あおぞら財団理事長の森脇君雄です。