あおぞら財団ではここ数年毎年、環境省職員環境問題史現地研修の受け入れを行っています。今回の研修は10月26日(木)~27日(金)にかけて行われ、計18名の方が参加されました。公害患者さんの平田和子さんのお話、森脇君雄さんのお話、弁護団の村松昭夫先生のお話、西淀川のフィールドワークなど2日間にわたる研修が行われました。
名前・今回の研修に期待すること・業務内容・環境省の使命とは何か、この4つについて紙に書いて発表します。
自己紹介の後は、あおぞら財団の林さんの講義です。
林さんによる講義は「西淀川公害、地域再生について」というテーマで、「戦前の公害問題といえば何か?」という問いかけから始まりました。四大公害を始めとした全国の公害と公害訴訟の話から、西淀川の歴史・公害被害者の患者会の発足・大気汚染裁判について、裁判の結果誕生したあおぞら財団の理念についても説明がありました。西淀川公害裁判では地域再生を目指したことにより、国や企業がその理念に共感し、和解へとつながることとなりました。あおぞら財団は公害によって分断されたコミュニティをつなぎ直し、いろいろな立場の人達をつなげる使命を持って活動をしており、ESD(持続可能な開発のための教育)、SDGs(持続可能な開発目標)等を通じて、様々な活動を行っているとの説明がありました。
次は公害患者さんである平田和子さんのお話がありました。「西淀川公害患者と家族の会」事務局長・上田敏幸さんも来てくださいました。
平田さんは3つのときに気管支炎になったそうです。夜中の10時から明け方3時まで喘鳴がひどく肩で息をするような状態でした。小学校の時、足に湿疹ができ、それが治ったとおもったら、ぜん息になりました。夜はうとうととしか眠れなかったが、学校には休まず通い、皆勤賞を貰ったそうです。27歳位の時に再びつらい発作がおこり、本格的に医者に行かねばならなくなり、公害からくるぜん息であると認定されたとおっしゃっていました。ぜん息の症状については、マラソンのゴール時に息が上がって、肩で息をしている状態と同じで、それがずっと続いている感じだとおっしゃっていました。自分は小さいときからぜん息だったので、元気な時があまりない状態が当たり前で、それが普通の感覚になってしまっているそうです。
林:公害が酷かったといわれている昭和40~50年代の西淀川の空を覚えている?
平田:40~50年代に自分が住んでいた淀川区は工場のたくさんあった海側から遠く、そこまで空気が悪くなかったが、空を見たらもやがかかっていた。
林:患者会に入って、裁判の傍聴やデモへの参加、署名を集めたり等運動をしたことで、良かったことと、参加の動機は?
平田:通っていた病院が西淀病院で、公害に反対する活動が盛んな病院だったことと、何かしなければならないとの思いもあり、自分も参加するようになった。運動を通じて仲間が出来たことが良かった。
平田さんは、環境省職員の方達にむけて一言ということで、自分は公害健康被害補償制度による認定患者であるため、現在は医療費の補助等があり助かっているが1988年以降の新規認定廃止後の未認定患者さんは医療費が高く、自分も子供の頃はかなり医療費がかかったこともあるためこの問題をなんとかしてほしいとお話されていました。
Q:他の公害患者さんの中で大変そうだった人は?
A:自分は子どもの時からぜん息だったが、途中から、大人になってからぜん息になった人は点滴しても症状が治まらない人もいた。ステロイド入りの200㏄の点滴3本で、症状が止まらなかったら入院ということになっていた。
Q:平田さんの今の生きがいは?
A:毎日プールに行って体を鍛えて、植物を育てている。
この他等級の判断基準や、周りからのサポートについての質問が相次ぎました。
会場を5階のエコミューズに移して、公害被害者総行動デーで40年間代表委員をつとめ、西淀川の公害患者会の原告団団長、患者会の初代理事長でもある森脇君雄さんのお話がありました。
森脇さんは「自分達と環境省は、緊張感と信頼感を持って関わってきた。」と語り始めました。緊張とは、西淀川裁判提訴直後に、環境省が二酸化窒素(NO₂)の環境基準を2~3倍に緩和し、公害健康被害補償制度の指定地域を解除しようとした時のこと。裁判の要求の一つが二酸化硫黄、二酸化窒素、浮遊粒子状物質の環境基準を達成するということだったのでこの緩和により環境基準が達成されてしまうことになったというお話でした。当時の山本宜正大気保全局長からはこの緩和に関して納得する説明がなく、山本氏自身が勉強不足であると認め、ついには大阪まで来て、交渉をしたそうです。彼はまじめでいい人だったが、我々も黙っているわけにはいかなかった、と森脇さんは語っておられました。
信頼とは、嘘をつかない、決めたことを必ず守るということ。これを何十年も続けてきたとのことです。
環境省の役割とは、その成り立ちが四大公害裁判で被害者側が勝利したときに生まれ、同時に公害健康被害補償法を作ったので、患者の立場に立ち、仕事をするのが環境省の基本であると信じている、とおっしゃっていました。
20年もの間続いた西淀川の裁判に勝利できたのか、どうして団結できたのかのは、この問題が国との対決で、一方では直接国へ抗議に行き、一方では裁判に参加しているため、どうしても勝たねばという意志が強くなったということでした。ある意味西淀川の患者会・公害患者を強くしたのは環境省と経団連だったと振り返っておられました。
その後、環境省とはこれからも関係を続けていけたら、とお話されていました。
Q:裁判が長引いた理由は何か?A:西淀川は、よそ(堺市・尼崎等)からのもらい公害だったため、因果関係の証明が難しかった。どこの煙がどのように西淀川に流れ込んでくるかをスーパーコンピュータで計算し特定した。原告側は京都大学の1台を借りたが、関電等の被告企業は数台駆使しデータをとっていたこともあり、向こうの方が強かった。
Q:726人の原告で裁判を闘ったという話だったがどのようにしてモチベーションを保ったのか?
A:指定地域解除の問題については国に原因があった。裁判どころではないため、患者の半分は運動を行い、半分が裁判に行った。直接運動に行くことで、理不尽な思いをすることが多々あったので、その怒りが裁判闘争を長く持ちこたえた理由の一つ。当時、内心裁判は負けると思っていたし、補償法を潰されるかもしれない恐れがあり、患者は必死で戦った。戦い続ける中で自信がついた。また100万人もの署名を集めた。運動が一人一人を強くしたし、どこに行っても話すことが訓練にもなり、原告のタスキを手放さなかった。
続いて、西淀川大気汚染裁判の弁護士であり、あおぞら財団、現理事長の村松先生のお話です。
村松先生は、実際に裁判に取り組んだ弁護士の立場から、患者さん達や弁護士がなぜ公害裁判を起こしたか、西淀川大気汚染裁判の意義等についてお話してくださいました。
日本の公害裁判には四大公害裁判から始まる半世紀以上の歴史があり、被害者が原告として立ち上がり、弁護士集団が彼らを助けてきました。多くの弁護士が集団として関わることが日本の裁判の特徴であり、なぜ公害問題に取り組むか?ということを問われた時、弁護士を志す人は社会正義と基本的人権の擁護、社会的少数者の人権が侵害されたときに助けようという思いを持っているからだとおっしゃっていました。環境省の皆さんも、環境や公害の問題に関わっていこうという思いを持っているのではないか、と述べられていました。裁判中は、弁護士間で様々な議論が出て意見の対立もあったが最後には被害者の救済のためにという意志は一致しており、そのため議論をくり返し、合意を進めてきました。裁判は「事実と現場」が重要で、判決にも影響を及ぼすとおっしゃっていました。公害裁判では、患者さん達の言いたくない本当の被害、死ぬ間際の姿・言葉も含めて原告の苦しみを正直に訴えこれらの事実を裁判所に伝える、これが公害問題に取り組む弁護士がまず最初にやらなければならないことだそうです。弁護士の頑張りだけでなく、原告の患者さんには、嫌なことも思い出してもらい、人前で発言することで、気持ちが変化してくるところがあると述べておられました。
西淀川の裁判の意義の一つは、車社会を進めようとする考えが主流だったところに、その路線を変えていくきっかけを裁判が作ったことであるとおっしゃっていました。そして、あおぞら財団というNPOを作るのに環境省が協力してくれたことは本当にありがたいことだったとおっしゃっていました。
Q:西淀裁判で20年という長さの中で事実が変化することはあったか?
A:裁判を起こした時はNO₂が問題だった。NO₂は大気汚染の一つの指標であったが、当時はその健康影響ははっきりわかっていなかった。裁判当初、阪神工業地帯が現役だったが、裁判終り頃になると、工場が移転などで縮小していった。工場排ガスの差し止めは重要なことだったが、裁判が終わる時には自動車排ガスの方が問題になっており、その差し止め要求が重要になっていた。
Q:裁判をやった動機は?
A:自分が弁護士になった時には裁判が始まって3~4年目だった。後で振り返るとあの当時これだけの裁判をおこした弁護士は勇気があったと思う。勝ち目がなかった。当時大気汚染がひどくて患者の数が多く、なんとかしなければならないと考えたこと、公害に対する世論の力もあったと思う。解決要求は謝ること、償うこと、公害対策をすることであり、地域再生・環境再生要求を入れた。
最後に振り返りのワークショップを行いました。一日目が終わって、気づいたことを話し合い、二日目のフィールドワーク等に向けて、問題意識の近い人達でグループごとにわかれました。
今回研修の一日目をお手伝いさせていただきました、村山です。私は、普段は財団の資料の整理作業に携わっています。今回研修をお手伝いさせていただいて感じたことは、実際に裁判や運動に携わってきた方が、対面してきた人達の印象は資料からだけではわからないということです。森脇さんのお話の中でNO₂環境基準緩和に大きく関わった環境庁の山本宜正大気保全局長に対して「彼は真面目でいい人だった。」とおっしゃっていたことが強く印象に残りました。運動も裁判も、人間対人間の出来事であるため、森脇さんをはじめ、患者の方が粘り強く対話を重ねてこられたということがよくわかりました。
(村山知子)
2日目の記事は後ほど。