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生い立ちの記3 柿の木から落ちる


 1945年の秋のことでした、家の前には大きな柿木(御所柿)がありその木に登って下で待っている子供に柿を取って落としてやるのが学校帰りの日課でした。  
 其の日、家には大阪からお産のために実家に帰っていた義姉が寝ており、その他は家から500米程離れた所で稲刈をしていた、私は得意げに木に登り赤く大きく熟れた柿を見つけ、手を伸ばし柿を取ったと思った途端に、右手の小枝も右足の木も枯れ木であつたため、同時に折れ柿を手にしたまま10米下に落ち途中下の家の便所屋根を壊しながらもう一度大きく宙に舞うようにして下のコンクリ=トに叩きつけられた。
私が気付いた時は戸板に乗せられ下市の折骨院に運ばれる途中で、茶堂を過ぎた所に毒蛇「ハミ」が出て戸板がゆれたことを覚えている、治療については女の先生でしたが右足の根っ子がぶらぶら、又足の腿肉はちらばっていた足が固まって歩けるようになるまで気長く親切に冶療を続けて頂いたことが良かったと、今思う、それにしても、小学校の3年の秋から4年の冬まで1年2ヶ月、学校は休むといゆう大きな冶療でしたが、敗戦の直後とは言え、勉強の遅れは人生にも身体的にもその後に響くことになった。

怪我とその後
 敗戦の年(1945年10月21日)門先にある大きな柿ノ木から落ち大怪我をする。その時から1年2ヶ月学校を休むのですが、不思議に思い出せない。
 柿の木から落ち気を失って戸板に乗せられ中山骨接医院に行く途中でした、その後どんな治療をしたのか、いつ家に帰ったのか、どんなリハビリをしたのか、元気になって学校にいけるようになったかも覚えていないのです、覚えているのは腿の肉がバラバラになって皮と骨の間には何もなかったことと、うどん粉と酢をまぜて痛んでいる所に貼る、乾いたら貼る、そして取り替える一日に何回も繰り返す、貼る時はヒヤリと冷たくても我慢ができるのですが、それお取り替えるのは痛く、大小便やシップの取り替え、傷めた右足を動かす時など「待ってナ、動かすのまってナ」とあまりの痛さに訴えていたことを覚えている。
 小学校5年の夏は、まだ、怪我のため学校には行けないが、親父の実家(山形)にはよく行って遊んでいた。有漢川「弥勒淵」で大好きな魚捕りをした、大きなタライの中で座りシップ腿をかばいながら逃げる魚を追ううちにタライガひっくり返り包帯を巻いたまま水のなかえ頭から落ちたことなど覚えている。その後も近所の子に背負われて川にゆき、夏休みが終わるまで山形の家で静養し、この頃から自分の力で歩き、遊ぶ自信をつけたと思う。




Filed under: 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005年7月21日4:07 PM

はじめまして


私は、今年7月からあおぞら財団の専務理事をしています。本職は弁護士、西淀川公害裁判に携わったことから、あおぞら財団に関わることになり、現在は週2〜3日は財団事務所に通っています。諸外国では弁護士が環境NGOの役員を務めることは結構多いようですが、日本ではあまり例がなく、やって見たいこと、やりたいことは多くても、何ができるかはこれからです。現実の公害発生や環境破壊に対する裁判等にも取り組みながら、環境再生、地域再生の仕事もと少々欲張りですが、新たな挑戦に意欲を持って取り組んでいます。




Filed under: 村松理事のコラム — aozorafoundation 公開日 2005年7月20日9:33 PM

私の生い立ち 2 子どもの頃の思い出


 私を知る人の中に{常用の上の勇ちゃん}とか(君さん)とそれぞれの呼び方をするが近所の人が今でも(勇ちゃん)であり、それ以外は森脇君雄ですが、もう一つ生年月日に問題があるのです。
  私のすべての経歴には7月10日が通用しているが戸籍謄本の上では7月17日になっている、どこが間違えたのか、誰が間違えたのかを調べてみると、小学校入学時に7月10日と当時の上有漢村役場が間違えそれを私も永い間、今でも続けているのです。海外渡航の時のパスポートのみが17日以外は認めてくれません。        

 1−2歳頃の話は父母から何も聞いていません。しかし岡山の政子姉さんから聞いた話では、生まれた場所は奥の納戸の部屋、首に臍の緒が絡み生まれるまで時間がかる、暗くなって、うぶ声をあげたのでひと安心。大きさは普通の児で生まれる。当時は産婆さんが居ないので,近所のお婆さんが立会う。臍の緒を長めに切ったので出べそと思っていたようです。五月節句などの祝いは今までの姉妹でしてもらった事がない程派手なもので羨ましく思っていた。父が軍隊に行き母は畑仕事で忙しく学校が終わると私の子守りをしていた。母一人の時は、家の中の柱に紐で括り、畑から度々見に帰り障子に指で穴をあけ元気な様子を見ていたそうです。
 田植え時期に覚えているのは牛の上に桶を乗せ、その中に入れられていた?そして泥田にタライを置いて中で遊ばして農作業をしていた。奥切れ(土地名)田の中に清水が沸き出る場所があり、又、そこは深い泥田で米が獲れずメダカが泳いでいた。ここでは桜の木に長い紐で括られていた。その木には(サクランボ)が実っていた。
  我が家は母屋(藁ぶき)蔵、(瓦ぶき)納屋(瓦ぶき)で130年程度経過している古い家屋でした。母屋には床の間、中の間、表の間、そして奥の間、納戸、囲炉裏の間。があり、中庭には冬でも氷の張らない水瓶、ほうろう釜、二つの火炊釜と木で出来た足ふみ臼(米、餅などを搗く)、手引き臼がありました。五え門風呂(注)は入り口に竹を並べて敷きしめられ、その下が便所。風呂水もその中に流されていて、それを畑の肥料にもしていた。納屋は2階建で下側の中に牛が飼われていた、離れに2部屋あった。
 蔵は米蔵と蚕などを飼う所と乾燥場に分かれていた。冬には吊るし柿とかき餅が二階の窓際に吊り下がっていた。いたずらすると家の真ん中にある大黒柱に括られるか?大かな扉のある蔵に入れられた。大黒柱は泣くだけ、蔵は始め暗いが、暗さには直ぐなれるし楽しみがあった。上にある吊るし柿を食べながら藁で床を作り、漫画や雑誌が読めた。
 床の間には神仏が別々に祭られており、鍵のかかったタンスがありその中に戦前は大小の日本刀が揃いで5本ほどあった。そのうち2本の刀を何回も持ち出し、近所の子供たちと一諸に竹薮で試しきりして刃をバラバラにしたのを親に見つけられ蔵に一日中閉じ込められた。あとの刀は戦時中に軍部に取上げられ、未だに返しては呉れない。小刃を1本は家に置き、死亡した時に胸の上に置く習慣があった。また、タンスから女性の人体解剖本を取りだし蔵の中に隠していた。
 日中戦争が1937年に始まり、36年には父親は満州兵役している。私が2歳の時で島子姉さん(長女)16歳で倉肪に就職していた?政子姉さんは12歳、正兄は7歳。は母一人で家族を守っていた。
 政子姉さんは小学校、尋常高等学校を卒業し体が小さく、弱いので井原町で被服工場に3年間でミシン一台貰う約束で働きに出る。小遣いとして70銭を貰い貯まったお金で映画を見るのが楽しみと話してくれた。 




Filed under: 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 11:12 AM

私の生い立ち 1


あおぞら財団理事長の森脇君雄です。
今年、古希になります。
夢追い続けた男のロマンを読んでください。

(この絵は自画像です)

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私の生い立ち

 私の生まれは、中国地方の、備中高梁から4里程有漢川に沿って山奥に入ると(有漢)と言う地名の村がある、その村の中心から1里ほど坂を登ると大石部落に着く、この部落には鎌倉時代の石碑や京都の地名が多く出て来る、石碑を見ながら更に奥に登ると太平山の中復で一番上にあるのが常用(ジョウヤ)の上「屋号」、そこが私の生まれ故郷の早川家です。
 大石の地名は大きな石がめだって多く良質な石材「花崗岩」で鎌倉末期の仏教と結びつき石造美術品が残されており、平安時代の書物「和名妙」の中に大石郷と記されている。
 この部落は大石の姓が多く、早川の姓は「常用の上と中」2軒があるのみで、何れも屋号があり氏名を呼ぶより、屋号を頭につけて人の名前を呼ぶ習慣がある。例えば私を呼ぶ時には「常用の上の勇(イー)ちゃん」とよばれていた。実家は、海抜500米程の高さがあり、天気のよいときの朝は、眼下が一面、真っ白で四つ畝山の遥か彼方に中国山地、そして大山や蒜山のすばらしい山々を目にしながらの雲海は格別の景色です。
 又、実家の西側に高雲寺跡かつては保月山金光寺と呼ばれ真言律宗の本山奈良西大寺末寺であり、備中二ヶ寺に記されていたが、その後、寛政年間に真言宗臍帯寺の末寺に変わり元冶元年に焼失しているが、保月二重の塔、三尊板碑、六面石撞、破損板碑などあるがそれは嘉元三年に当代窟指の名工(井野行恒)名作で国の重要文化財に指定されている。
 早川家は3代女系家族が続いており、母「あやの」も7人兄弟の末っ子で生まれながら跡取りになっています。(22歳で宗正さんと結婚1男二女が生まれる、宗正さん死亡)そして(36才で8歳年下の森脇幸之助と2度目の結婚1男がうまれる。)
 1935年7月10日(7月17日?)に幸之助とあやの、の間で生まれたのが森脇君雄(早川勇?)です。私の誕生日と名前が2つあるのが不思議で今でも不便な時もあります、後で両親に聞いた話ですが{早川家、森脇家}の跡目問題のもつれが原因でした。(森脇君雄で母親に無断で7月10日に父親が戸籍登録をし、母親は家族みんなで相談して決めた早川勇の名前で産後、歩けるようになって7月17日に登録する、)この争いは私が24歳になるまで続いていましたが、遠く離れて生活して行くうちに家族の愛情の大切さが分かり法務局にゆき書類を集め父親に入籍を進めました、そうして、森脇幸之助を早川幸之助と改め{早川家}に婿入りし、早川正(義兄)を相続人に決めることで決着、私は父親のことも考えて実家の森脇の姓を継ぎ、森脇君雄を引きつづくことにした、家系の中に1人だけ{森脇}の姓を名乗るハメになつた。

(つづく)




Filed under: 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005年7月15日9:32 PM

名古屋からも来訪者



NPO法人名古屋南部地域再生センターの中井さんです。
名古屋も大気汚染公害の裁判が行われ、
和解後、公害地域再生のために設立されたのが、
名古屋南部再生センター(名古屋あおぞらセンター)です。

中井さんは、あおぞら財団に半年ほど研修に来ていたことがあるんですよ。
名古屋あおぞらセンターでもブログをやっているようですが、ぜんぜん更新が・・・

広報は難しいですが、お互いがんばっていきましょう〜




Filed under: 事務局より — aozorafoundation 公開日 7:29 PM
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