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みずしま財団のブログ


あおぞら財団のお仲間の団体、「みずしま財団」は岡山県倉敷市水島にあります。公害地域の再生に地域の資源をいろいろと活かしながら取り組んでおられます。
みずしま財団のブログにも、ぜひ、訪れてみてください。




Filed under: 事務局より — aozorafoundation 公開日 2005年8月4日3:43 PM

生い立ちの記6 中学から高校時代


中学から高校時代
 中学は有漢と上有漢が合同し生徒数も多く、一年生が3学級(140人)ありました。小学校の時から隣村で遊び喧嘩もした。「上有漢の突っ張り学校、ぼろ学校」と言われ集団で鞭やチエン棒などもって殴り込みにいったこともありましたが、いざ、同級生として机をならべ勉強をしてみるとおとなしい子供たちでした。
  1年から2年生の終る頃までは、ほとんど勉強はしなかった。学校には行くが遊ぶだけで、本も持っていった覚えがないぐらいでした。それでも何度か勉強をしようと思い教室に入ったのですが数学、理科、英語がついていけなく、国語はなんとかわかる程度、図画と習字は特別に出来ていた。必修科目ができなく教室にいても面白くなく、自然と時業を受けない日がつづきました。学校では有漢中の番長でもあった二つ年上の「辰巳屋の安さん」の下で餓鬼大蒋の真似ごとをしていた。担任は2年間、蛭田先生でこの人は学級を勉強の出来る子と出来ない子を分けて、特に出来ない子は放課後に残し暗くなるまで熱心に教えていたが、出来ない子にはこの授業は評判がよくなかった。私も残される組にいつも入っていた。
注1「1997年に有漢中学校創立50周年記念があり、同級生の加藤孝之君が有漢町長で教育長も同級生をしていた。記念講演に私と(村松弁護士)が呼ばれた。講演は中学時代の思い出と環境問題を取り上げました。今の蛭田先生はその後、校長にもなられ,教育長を務められるなど、町行政の上でも歴史を語る人として多くの人に尊敬されています。」又、「生い立ち」には歴史文献は蛭田先生(有漢点描)引用。
中学3年の時、有漢と上有漢に分かれ有漢中学校上有漢分校となり一つの学級になった。担任には宮城先生になり、少しは勉強をしました。お陰で卒業の時は努力賞を貰う。進学、就職のことが同級生のなかでも話題にあがるようにになりました。一緒に悪餓鬼をして遊んでいた子供のなかでも農家を継ぐ子、大工、左官、集団就職をする子、各自決めていました。私は決心が無いまま、先生に相談するとお前の成績では県立高校はこれから勉強の特訓しても「無理」と言われ、高梁市にある私立の日新高校を受ける事にしました。
恋心  恋心は、いつ、誰と、どこで、を思い出すのは難しい。小学校の頃になると同級生に胸が熱くなる子がいた。一緒にいたいが、いると、はずかしいので逃げる。その子は親戚で家が宿屋をしていた。何かあると良く遊びに行き「かくれんぼ」や泊り客で「富山の薬売り」のおじさんから紙風船などを貰っていた。
中学3年になると有漢から上有漢に移り、小学校の隅を借りて有漢中学上有漢分校(ヤドカニ分校)が出来た。女子新入生の中にテニス姿の美しい生徒がいた「話をしたい」「一緒に遊びたい」用事も無いのに遠回りして、その子の家の前を行き来していた。高梁に映画と松山城に一度だけ楽しいデートをした。その頃は手も握ることもでき無かったと覚えている。
当時、高梁には高校が4つもあり「県立高梁高校、高梁工業高校、順正女子高校、私立、日新高校」学生の街でした。有漢と高梁は20km程離れており通学には自転車が主な乗り物でした。バスも一日に2回ありましたが通学には利用していませんでした。
日新高校の歴史は明治37年7月に有漢村に「有漢教員養成所」として創立され、大正10年、その当時日本の代表的雑誌「キング」や「主婦の友」等で特集として「日本一の教育村」「無税無徴収の村」、として全国に記事が流れた。大正の初め有漢小学校長兼有漢教員養成所長に金岡助九郎が就任し、彼の教育えの強い熱情と信念により村の協力を得て、その規模を著しく拡大した、村の将来を考え女子教育の必要性を重視し村内の女子を無料で全員入学をさせ、教育費は全額村費で賄うものとして時代の最先端を行くものとして日本中の人々を驚かせた。「世界一の教育村」教訓例話辞典、大正11年には大阪朝日新聞、大阪毎日新聞、に載せるなど各紙が10年から14年に載せている。
山奥に珍しい共産村、税も取らず月謝もいらず、村民全部が中等教育をうけ、小使い、女子まで教員免許をもつと言われた文化村であった。
伯備線の終点が高梁になり、ここに岡山県高梁正教員養成所を設置する「大正3年」そして昭和5年に有漢教員養成所と高梁正教員養成所を廃止して岡山県高梁商業高等学校を設立しました。その後校名は3回変わるが昭和25年に日新高校になり現在に至っている。
「初代金岡助九郎、2代金岡武、3代金岡誠」で私の時代は2代目の校長で3代目は確か1学年上でした。




Filed under: 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005年8月2日11:30 AM

日韓の公害環境弁護士の交流


 韓流ブームの一方で歴史問題や竹島問題など何かと問題の多い日韓関係、でも、公害環境の分野では市民レベルでの交流が着実に進んでいます。
 この8月26日、27日の2日間、ソウルで、公害環境裁判に取り組んでいる弁護士を中心に、公害患者、環境運動家、研究者などが集まって、公共事業による環境破壊など両国で共通する課題を取り上げた活動交流などを行う、「第2回韓日公害環境問題交流シンポジウム」が開催されます。日本側の公害弁連と環境法律連盟、韓国側の環境法律センター、環境訴訟センター、「民弁」環境委員会が共催です。日本からは弁護士30名をはじめ50名近くが参加します。大規模干拓が問題となっているセマングム干拓工事現場や高速道路を撤去して川の復元を行っている清渓川復元現場などの視察も計画されています。
 3年前の第1回シンポ以後、日本でも韓国でも裁判や運動の新たな前進が見られます。会員数10万名近くの環境NGOの誕生など、韓国の環境運動の盛り上がりは目を見張るものがあります。
 今回も、新たな出会いと夜遅くまでの語らいなど、大いに刺激を受け、日韓の連携を深めたいと思っています。
 結果はまた報告させてもらいます。
 
 




Filed under: 村松理事のコラム — aozorafoundation 公開日 2005年7月29日12:04 PM

生い立ちの記5 ガキ大将の頃


敗戦の時
  1945年8月15日正午に小学校で重大放送があるので連絡があった、その日は在郷軍人査閲練習で学校は休みでしたが母親に連れられて玉音放送を聞きましたがラジオの音が雑音のため良くわからなかった。その場に座って泣いていたように思う、「ただ今から天皇陛下の玉音を放送いたします」これには驚いたらしい、天皇は雲の上の人であり、その声を聞くことはできない時代であった。それが国民へ向けてのラジオ放送である、直立不動で聞き「耐えがたきを耐え、偲びがたきを偲び」ポツダム宣言を受け日本は負けた。
 私は、母親が帰りながら小さな声でお父さんがかえってくると言ったの言葉をおぼえている。
 お父さんの事では3年の夏{柿ノ木から落ちる前}に学校から帰る途中に友達と遊んでる時、郵便局の人に電報を渡され「山形(有漢)のおじいちゃんが死んだヨ、早く帰ってお母さんにわたして」と言われ、家に帰るとお父さんが死んだといって母に渡すと「チチシススグコイ」と電報には書いてあり、急に母は泣き出し、その電報を持って下の家「辰巳屋」のおじさんの所に走っていった、この頃、父は3回目の兵役で九州、宮崎県都城の弾薬庫を守っていた。

悪餓鬼
  5年生の終り、12月から1年2ヶ月振りに学校にゆくことになったが勉強についてゆけず、算数,理科、ロ〜マ字などが特に苦手でその時間は「蛇」を持ち込み教室に放す、カエル、ミミズ,大きな百足。蜂やアブを飛ばすなどで先生を脅し、バケツに泥水を汲み教室に流す、どんなに怒られても平気でイタズラして勉強は6年を卒業するまで机にむかった覚えがない、よく卒業さしてくれたと思っている。
 学校から帰る途中の道端に炭小屋の跡があり、その中に籾殻を入れてあり、遊ぶには絶好の場所でした。ここで思い切り走りながら空中回転の練習をする、首から落ちても籾殻なので怪我がないので1週間で全員が出来るようになる。次は地上空中回転を教えていた。
 教え方で二つ年上の[下田の節ちゃん]と喧嘩になる。体も腕力も違う相手に夢中で右腕に噛り付き放さなかった。歯が腕の中に食い込み血が吹き出したが相手が泣くまで放さないでいた。大きな声で泣き出したが怖くて、離したら負けると思い大人が飛んでくるまで放さなかつた。血が吹き出し周りの子供も一緒に泣いていた。畑仕事をしていた「立石のおじさん」が止めに入り噛むのを止めた。
  中学に入っても悪餓鬼は益々ひどくなり、服装は当時流行っていた六高の学生と同じ格好して、帽子は国民帽を二つ折、その上に靴ずみを塗りテカテカにして白線を二本縫いつけ黒い長い鍔に取り替え、白いシャツに黒いズボン、腰にタオルをさげて高下駄で登校していた。

写真:筍と古釜




Filed under: 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005年7月28日8:22 PM

生い立ちの記4 戦時の子どもたち


写真「雲海と我が家」
 
私が小学校に入学した時1943年で第二次大戦の激戦中で成人男性はすべて兵隊にいっていて老人と女性、子供たちが生活をしていた時代でした。
 それでも校庭には、チャーチル(英国首相)とルーズベルト「米国大統領」の藁人形を作り在郷軍人「傷痍軍人」の掛け声で婦人(国防婦人会)学童「小学4〜6年」は竹やりを手にして藁人形に向かって大きな声で、突け突け、引け引け、突っ込めと走っていました。
 其の頃の学童は勉強をするより毎日が塊根と軍事訓練が日課でした、時には「在郷軍人査閲練習の日」があり校庭に集まり親達の猛練習を小陰から覗いていました。小学生全児童は神社に向かってラッパの音とともに、行進、駆け足をする、それが終わると山に入り炭小屋から炭俵を広い道まで運ぶ、又、田植えの苗についているずい虫取り、等をやりました。
 防空訓練は頭に防空帽を被り、足にはゲ〜トルを巻き小さい子から順番に防空壕に入る練習を何回も繰り返しておこないます。学校や診療所など白い建物には黒い墨[釜戸の煤]を水で溶かし混ぜ合わせた物をべたべたと塗りたてて米軍機から攻撃を守るものと信じていました。
 家庭では夜になると電球に紙を巻きつけ、上空から見えない工夫をしていました。空襲警報のサイレンは学校にあって鳴らす役目をしていた、炭焼きの火は消すことができなくどうしようもなかったようだ、蒜山で炭焼き中に爆弾を落とす例があった。思い出と言えば、弁当の時間で、冬などはスト〜ブで芋を焼く、餅を焼くそして皆で食べたこと、学校からもらった種で農作物の品評会があり運動場には白菜、大根、聖護院大根など並ぶ中で私の品が「大根の部」で2等賞になり、生まれて始めての賞でした。
 小学生低学年が家で出来る手伝いは、水汲みと風呂焚き家畜(牛、ウサギ、鶏)を飼うことでした、水汲みと言っても今のように栓を捻ると水がでるのと違い、大平山からの湧き水なので水汲み場が遠く急な坂道を背丈と同じぐらいの水田子[桶]を天秤棒で担ぎ、何回か五右衛門風呂釜と水瓶に運ぶのも日課でした。近くに水車小屋かあり、6軒が共同で米搗きをしていたので当番の時などには水を見にゆき、その水車小屋の上にあるのが「長宗池」、何故か私はこの池が大好きだった。




Filed under: 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005年7月26日1:11 PM
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