あおぞら財団 財団ブログ
公害の歴史Q&A あおぞらイコバ
公害を伝えるための資料整理寄附募集
屋上広告募集
りべら広告募集
Don't go back to the 石炭

全ての記事を表示

    キーワード検索

    アーカイブ

    カテゴリー

    最近の投稿

    最近のコメント

» 2005 » 7月

日韓の公害環境弁護士の交流


 韓流ブームの一方で歴史問題や竹島問題など何かと問題の多い日韓関係、でも、公害環境の分野では市民レベルでの交流が着実に進んでいます。
 この8月26日、27日の2日間、ソウルで、公害環境裁判に取り組んでいる弁護士を中心に、公害患者、環境運動家、研究者などが集まって、公共事業による環境破壊など両国で共通する課題を取り上げた活動交流などを行う、「第2回韓日公害環境問題交流シンポジウム」が開催されます。日本側の公害弁連と環境法律連盟、韓国側の環境法律センター、環境訴訟センター、「民弁」環境委員会が共催です。日本からは弁護士30名をはじめ50名近くが参加します。大規模干拓が問題となっているセマングム干拓工事現場や高速道路を撤去して川の復元を行っている清渓川復元現場などの視察も計画されています。
 3年前の第1回シンポ以後、日本でも韓国でも裁判や運動の新たな前進が見られます。会員数10万名近くの環境NGOの誕生など、韓国の環境運動の盛り上がりは目を見張るものがあります。
 今回も、新たな出会いと夜遅くまでの語らいなど、大いに刺激を受け、日韓の連携を深めたいと思っています。
 結果はまた報告させてもらいます。
 
 




Filed under: 事務局 | 村松理事のコラム — aozorafoundation 公開日 2005/07/29(金) 12:04

生い立ちの記5 ガキ大将の頃


敗戦の時
  1945年8月15日正午に小学校で重大放送があるので連絡があった、その日は在郷軍人査閲練習で学校は休みでしたが母親に連れられて玉音放送を聞きましたがラジオの音が雑音のため良くわからなかった。その場に座って泣いていたように思う、「ただ今から天皇陛下の玉音を放送いたします」これには驚いたらしい、天皇は雲の上の人であり、その声を聞くことはできない時代であった。それが国民へ向けてのラジオ放送である、直立不動で聞き「耐えがたきを耐え、偲びがたきを偲び」ポツダム宣言を受け日本は負けた。
 私は、母親が帰りながら小さな声でお父さんがかえってくると言ったの言葉をおぼえている。
 お父さんの事では3年の夏{柿ノ木から落ちる前}に学校から帰る途中に友達と遊んでる時、郵便局の人に電報を渡され「山形(有漢)のおじいちゃんが死んだヨ、早く帰ってお母さんにわたして」と言われ、家に帰るとお父さんが死んだといって母に渡すと「チチシススグコイ」と電報には書いてあり、急に母は泣き出し、その電報を持って下の家「辰巳屋」のおじさんの所に走っていった、この頃、父は3回目の兵役で九州、宮崎県都城の弾薬庫を守っていた。

悪餓鬼
  5年生の終り、12月から1年2ヶ月振りに学校にゆくことになったが勉強についてゆけず、算数,理科、ロ〜マ字などが特に苦手でその時間は「蛇」を持ち込み教室に放す、カエル、ミミズ,大きな百足。蜂やアブを飛ばすなどで先生を脅し、バケツに泥水を汲み教室に流す、どんなに怒られても平気でイタズラして勉強は6年を卒業するまで机にむかった覚えがない、よく卒業さしてくれたと思っている。
 学校から帰る途中の道端に炭小屋の跡があり、その中に籾殻を入れてあり、遊ぶには絶好の場所でした。ここで思い切り走りながら空中回転の練習をする、首から落ちても籾殻なので怪我がないので1週間で全員が出来るようになる。次は地上空中回転を教えていた。
 教え方で二つ年上の[下田の節ちゃん]と喧嘩になる。体も腕力も違う相手に夢中で右腕に噛り付き放さなかった。歯が腕の中に食い込み血が吹き出したが相手が泣くまで放さないでいた。大きな声で泣き出したが怖くて、離したら負けると思い大人が飛んでくるまで放さなかつた。血が吹き出し周りの子供も一緒に泣いていた。畑仕事をしていた「立石のおじさん」が止めに入り噛むのを止めた。
  中学に入っても悪餓鬼は益々ひどくなり、服装は当時流行っていた六高の学生と同じ格好して、帽子は国民帽を二つ折、その上に靴ずみを塗りテカテカにして白線を二本縫いつけ黒い長い鍔に取り替え、白いシャツに黒いズボン、腰にタオルをさげて高下駄で登校していた。

写真:筍と古釜




Filed under: 事務局 | 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005/07/28(木) 08:22

生い立ちの記4 戦時の子どもたち


写真「雲海と我が家」
 
私が小学校に入学した時1943年で第二次大戦の激戦中で成人男性はすべて兵隊にいっていて老人と女性、子供たちが生活をしていた時代でした。
 それでも校庭には、チャーチル(英国首相)とルーズベルト「米国大統領」の藁人形を作り在郷軍人「傷痍軍人」の掛け声で婦人(国防婦人会)学童「小学4〜6年」は竹やりを手にして藁人形に向かって大きな声で、突け突け、引け引け、突っ込めと走っていました。
 其の頃の学童は勉強をするより毎日が塊根と軍事訓練が日課でした、時には「在郷軍人査閲練習の日」があり校庭に集まり親達の猛練習を小陰から覗いていました。小学生全児童は神社に向かってラッパの音とともに、行進、駆け足をする、それが終わると山に入り炭小屋から炭俵を広い道まで運ぶ、又、田植えの苗についているずい虫取り、等をやりました。
 防空訓練は頭に防空帽を被り、足にはゲ〜トルを巻き小さい子から順番に防空壕に入る練習を何回も繰り返しておこないます。学校や診療所など白い建物には黒い墨[釜戸の煤]を水で溶かし混ぜ合わせた物をべたべたと塗りたてて米軍機から攻撃を守るものと信じていました。
 家庭では夜になると電球に紙を巻きつけ、上空から見えない工夫をしていました。空襲警報のサイレンは学校にあって鳴らす役目をしていた、炭焼きの火は消すことができなくどうしようもなかったようだ、蒜山で炭焼き中に爆弾を落とす例があった。思い出と言えば、弁当の時間で、冬などはスト〜ブで芋を焼く、餅を焼くそして皆で食べたこと、学校からもらった種で農作物の品評会があり運動場には白菜、大根、聖護院大根など並ぶ中で私の品が「大根の部」で2等賞になり、生まれて始めての賞でした。
 小学生低学年が家で出来る手伝いは、水汲みと風呂焚き家畜(牛、ウサギ、鶏)を飼うことでした、水汲みと言っても今のように栓を捻ると水がでるのと違い、大平山からの湧き水なので水汲み場が遠く急な坂道を背丈と同じぐらいの水田子[桶]を天秤棒で担ぎ、何回か五右衛門風呂釜と水瓶に運ぶのも日課でした。近くに水車小屋かあり、6軒が共同で米搗きをしていたので当番の時などには水を見にゆき、その水車小屋の上にあるのが「長宗池」、何故か私はこの池が大好きだった。




Filed under: 事務局 | 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005/07/26(火) 01:11

生い立ちの記3 柿の木から落ちる


 1945年の秋のことでした、家の前には大きな柿木(御所柿)がありその木に登って下で待っている子供に柿を取って落としてやるのが学校帰りの日課でした。  
 其の日、家には大阪からお産のために実家に帰っていた義姉が寝ており、その他は家から500米程離れた所で稲刈をしていた、私は得意げに木に登り赤く大きく熟れた柿を見つけ、手を伸ばし柿を取ったと思った途端に、右手の小枝も右足の木も枯れ木であつたため、同時に折れ柿を手にしたまま10米下に落ち途中下の家の便所屋根を壊しながらもう一度大きく宙に舞うようにして下のコンクリ=トに叩きつけられた。
私が気付いた時は戸板に乗せられ下市の折骨院に運ばれる途中で、茶堂を過ぎた所に毒蛇「ハミ」が出て戸板がゆれたことを覚えている、治療については女の先生でしたが右足の根っ子がぶらぶら、又足の腿肉はちらばっていた足が固まって歩けるようになるまで気長く親切に冶療を続けて頂いたことが良かったと、今思う、それにしても、小学校の3年の秋から4年の冬まで1年2ヶ月、学校は休むといゆう大きな冶療でしたが、敗戦の直後とは言え、勉強の遅れは人生にも身体的にもその後に響くことになった。

怪我とその後
 敗戦の年(1945年10月21日)門先にある大きな柿ノ木から落ち大怪我をする。その時から1年2ヶ月学校を休むのですが、不思議に思い出せない。
 柿の木から落ち気を失って戸板に乗せられ中山骨接医院に行く途中でした、その後どんな治療をしたのか、いつ家に帰ったのか、どんなリハビリをしたのか、元気になって学校にいけるようになったかも覚えていないのです、覚えているのは腿の肉がバラバラになって皮と骨の間には何もなかったことと、うどん粉と酢をまぜて痛んでいる所に貼る、乾いたら貼る、そして取り替える一日に何回も繰り返す、貼る時はヒヤリと冷たくても我慢ができるのですが、それお取り替えるのは痛く、大小便やシップの取り替え、傷めた右足を動かす時など「待ってナ、動かすのまってナ」とあまりの痛さに訴えていたことを覚えている。
 小学校5年の夏は、まだ、怪我のため学校には行けないが、親父の実家(山形)にはよく行って遊んでいた。有漢川「弥勒淵」で大好きな魚捕りをした、大きなタライの中で座りシップ腿をかばいながら逃げる魚を追ううちにタライガひっくり返り包帯を巻いたまま水のなかえ頭から落ちたことなど覚えている。その後も近所の子に背負われて川にゆき、夏休みが終わるまで山形の家で静養し、この頃から自分の力で歩き、遊ぶ自信をつけたと思う。




Filed under: 事務局 | 夢追い人 森脇君雄 — aozorafoundation 公開日 2005/07/21(木) 04:07

はじめまして


私は、今年7月からあおぞら財団の専務理事をしています。本職は弁護士、西淀川公害裁判に携わったことから、あおぞら財団に関わることになり、現在は週2〜3日は財団事務所に通っています。諸外国では弁護士が環境NGOの役員を務めることは結構多いようですが、日本ではあまり例がなく、やって見たいこと、やりたいことは多くても、何ができるかはこれからです。現実の公害発生や環境破壊に対する裁判等にも取り組みながら、環境再生、地域再生の仕事もと少々欲張りですが、新たな挑戦に意欲を持って取り組んでいます。




Filed under: 事務局 | 村松理事のコラム — aozorafoundation 公開日 2005/07/20(水) 09:33
前のページ »