6月19日の月曜日、西淀川高校の生物の授業の一環で、まくわ瓜の種まきが行われました。
 西淀川区は明治、大正時代は豊かな自然を持つ農漁村地帯。
西淀川区は明治、大正時代は豊かな自然を持つ農漁村地帯。大阪の急速な市街地や工業化の拡大に伴って西淀川区も大きく変化し、現在のように農地はまったく見られなくなりました。
まくわ瓜は、農村だった時代の西淀川区の特産物。マックァと呼ばれていました。
あおぞら財団で行われた西淀川区の原風景の調査の中で、
「マックァゆうて、あんなおいしいのは、今はもうないわな」と、
昭和初期の様子を知る方が当時の思い出を語っています。
西淀川高校の畑は、農村西淀川区の時代の思い出を、伝えていく役割も果たしているんですね。
昨年は、甘くおいしい瓜が実り、新聞にも紹介されました。
復活!西淀川の十六まくわ
果たして今年の生育は・・・?
◆生育記 PartⅡへ 続く・・・








 2004年に日本市民スポーツ連盟・大阪府歩け歩け協会・あおぞら財団が協力して
2004年に日本市民スポーツ連盟・大阪府歩け歩け協会・あおぞら財団が協力して
 前半は、関西大学 社会学部教授 水野由多加先生の講義を受け、後半は、グループワークを行いました。
 前半は、関西大学 社会学部教授 水野由多加先生の講義を受け、後半は、グループワークを行いました。 グループワークでは、まずクルマ広告と電車広告について各自意見交換をおこない、クルマ広告と電車広告の違いなどを各グループでまとめました。
 グループワークでは、まずクルマ広告と電車広告について各自意見交換をおこない、クルマ広告と電車広告の違いなどを各グループでまとめました。
 9月26日、外島保養院慰霊祭で、出席しました。外島保養院とは、大阪にあったハンセン病の療養所です。1907年に隔離収容施設として開設されました。1934年の室戸台風により施設が破壊され、187人の人が犠牲になったそうです。あおぞら財団から自転車をとばして30分弱、現在の中島工業団地の端の外島保養院跡に、慰霊碑がありました。
 9月26日、外島保養院慰霊祭で、出席しました。外島保養院とは、大阪にあったハンセン病の療養所です。1907年に隔離収容施設として開設されました。1934年の室戸台風により施設が破壊され、187人の人が犠牲になったそうです。あおぞら財団から自転車をとばして30分弱、現在の中島工業団地の端の外島保養院跡に、慰霊碑がありました。
