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中島水道まち歩き 東淀川編 開催

6月16日(土)の昼、新大阪駅千成びょうたん前に集合して簡単な自己紹介をした後、ECOまちネットワーク・よどがわの神原さん手作りの古布ワッペンを胸につけて、小雨の中を出発した。(参加者13名)
新大阪 ワッペン
まず近くの西中島にある「さいの木神社」を訪ねた。江戸時代に中島大水道工事を指導して亡くなった3人の庄屋の供養がされている小さな神社で、地域の西町開運講が世話されており、毎年7月の第一日曜日に大護摩壇が行われるという。次にその3庄屋のうち、西尾六右衛門の墓がある「西町霊園」を訪ねた。ビルに囲まれた街中の小さな墓地で、西尾家の墓標が5~6基あるが、表面が腐食して欠落して時も読めないようになっており、保存の措置が必要である。また入口に、何の表示もないので、まちの貴重な歴史学習の場として、説明つきの表示板がほしい。
さいの木神社 西尾墓2

 再び新大阪駅東口前に戻り笑福亭仁勇氏が40年前の新幹線建設時の写真を出されて、現在の風景と比較した。オリンピックに間に合わせるために、最も早く、安くできる方法として中島水道を埋め立て、その上に新大阪駅と新幹線の効果を建設したそうだ。中島水道にかかる橋と丹波屋(八百屋)がはっきりうつっていた。(1964年開通)。新幹線高架下の中島水道の跡地を淡路の方向へたどって行くと、堤防や橋の跡がよくわかる場所がいくつか見られた。埋め立てられる頃には、汚染されてどぶ川の状態だったようだ。中島水道の起点である淡路の「新太郎松の樋」では立派な中島大水道顕彰碑が建てられていた。ここ四方から水路で水が集められてきたようである。その水路跡に沿って淡路駅近くの西光寺まで歩いた。
新幹線高架 段差
新太郎松碑 新太郎松2

 第2部の座談会は立派な西光寺別館の大広間で行われた。あおぞら財団の相澤氏が撮影した、まち歩きコース10m毎の連続写真を、アダプターでスクリーンに映してみた後、笑福亭仁勇氏より新大阪駅付近の新しい発見(橋野痕跡)や淀川区での取り組み等の報告があった。
座談会1  地図

その後淡路に長年住んで居られるゲストの小嶋氏と森川氏から、次のような事を聞くことができた。昔の中島水道の水はきれいで、水草が生え、フナが泳いでいた。農民は年に何回か川ざらい(泥よけ)をしていた。新太郎松の樋から川筋をみると、今の新大阪付近にあった操車場に出入りする列車が見えた。戦争のとき、軍需産業(繊維工業)の色水が流れた。焼夷弾で西淡路のまちが焼けたが、中島水道が火を防いだ。中島水道を埋め立てて新幹線を建設した時、水中の円筒にセメントを流して橋脚を建てていたが、住民は大丈夫かと心配した。強い雨が降れば水があふれ、淡路の北側は床上浸水することがあった。新太郎松樋から北に水路を作って流し、神崎川へポンプで流すこともしてきた。阪急京都線は元京阪電鉄の所有で、戦争中に強制合併させられたこと(十三駅に1番線がないのは、元淡路往復の路線。中津駅に停車せず。)
 地元のNPO自由空間倶楽部の方や四条畷から参加の方の発言もあり予定時間を大きく超えて話が弾んだ。
森川親子 小嶋さん

(参加者13名)

記 緑陰道路サロン 西口勲

打ち上げ
事務局追記:終了後、今回の企画者でもある森川真嗣さんの実家の銭湯『昭和湯』につかり、淡路の商店街で仕入れてきたお惣菜をつまみながら打ち上げをしました。

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