4月5日、中島水道サロン主催で「まち歩きと昔の話 西淀川区福町の歴史と自然を感じよう」が開催されました。
このサロンは、中島水道に関心のある有志がボランティアで企画・運営しているものです。
*中島水道については中島水道サロンスタッフの笑福亭仁勇さんのHPをご覧ください。http://www008.upp.so-net.ne.jp/niyu-ken/untitled82.htm
今回の参加者は9人。阪神なんば線「福」駅に集合し、大野川緑陰道路(かつての中島水道と大野川の一部を埋め立ててつくられた道)から淀川河口に向けて、福町を歩きました。
初参加の方もおられたので、まずは自己紹介。今回は、かつて福町に住んでいた方の参加があり、道中、中島水道サロンの常連さんたちとの話も盛り上がります。
阪神福駅近くの緑陰道路内にある水防碑(後ろの高架は国道43号線)。1976(昭和51)年に作られた由来をフムフムと覗き込みます
あおぞら財団事務局の小平から昔の写真や地図を見せながら、中島水道の成り立ちについての説明や「出来島という地名は田んぼの出来が良かったからついた」といった豆知識が披露されるのに触発されて、みなさん口々に話されます。
「まだ埋め立てられる前の大野川、知ってるよ」
「川幅が狭いところでは、両岸からゴミがたくさん捨てられてるところの上に板を載せて橋のようにして渡ってましたよ」
「七色のガスが出ていて妊婦は近づくなと言われた・・・」などなど。
今はすっかり区民の憩いの場になった緑陰道路。
2008(H20)年調べでは、なんと6000本の樹が植えられているとのこと。緑陰道路の一部が開通したのが1972年。開通した頃はまだ植えられた木々も細く、茶色(歩道)と青(自転車道)に色分けされたこの道は通称「カラー道路」と呼ばれていました。40年経ったいまではすっかり木々は成長し、緑陰道路の名にふさわしい気持ちよい道です。
かわいいお花発見!
ハナニラでした
すぐ側には白いタンポポも。主に九州など西日本でみられる花です。
淀川の堤防から福漁港を臨む。右は淀川製鋼。
右が堤防。福のまちが低いことがわかります。
淀川堤防を降り、福のまちなかを歩くと、小さなお社があったり、古い街並みであることを実感します。少し細めの道を歩き、福住吉神社に向かいます。西淀川は漁業を営む人が多かったため、海上の守護神をお祀りする住吉神社がいくつもあります。そのためこのあたりでは、「野里住吉神社」「福住吉神社」など、最初に地名をつけて呼ぶことも多いようです。
今回の後半は昔の福の様子をうかがう時間です。福で生まれ育った北村正義さん(1925(大正14)年生まれ)と、北村道春さん(1935(昭和10)年生まれ)のお二人からお話を伺います。
左が北村正義さん、右が道春さん(ごきょうだいというわけではありません)。
福の地域で生まれられたお二人だけに、正義さんの親御さんは川漁師、道春さんの親御さんは魚屋さんをされていたということです。
幼い頃の遊びも、中島水道や淀川で遊んだというエピソードがたくさん。
先輩と一緒に淀川でハマグリを獲ったりし、腰に一升樽をくくりつけ、引き潮に乗って淀川の中に立つ鉄柱まで流れて行く。子どもの道春さんが立つと目が水面に出るぐらいの深さ。足で川底を探ってみて、ハマグリをみつけてはもぐって獲ったそうです。
学校で禁止されていたハマグリ漁。危険もあるので先輩の言うことには絶対服従です。「早めに上がるぞ」と言われたら、もうちょっと獲りたくても指示に従い、込み潮に乗って泳ぎ帰り、ちょうど淀川の橋のあたりに着いたそうです。
現在の淀川の様子。ミサゴやカワウ等の野鳥が魚を捕る様子もみられます。
道春さんより10年先輩の正義さんは、終戦直前の4月に高槻の工兵隊に入ったものの、8月に終戦。
硫酸製造装置の設計をやっていた事務所に働きに行き、お父さんが「これからは工業や」という勧めもあり、夜間高校に通ったそうです。道春さんによると、働きながら夜学を卒業するのは大変なことだそうで「先輩(正義さん)はすごい」と関心されていました。
またお二人からは、台風で浸水したときのエピソードや、川が汚れてきた頃のお話も伺いましたが、詳しくは今後、あおぞら財団機関誌『リベラ』でご報告する予定ですので、お楽しみに!
当日は花冷えで、当初予定していた野外での花見は取りやめ、屋内での昼食となりましたが、お宮さんがご用意くださった暖かいお茶もいただきながら、和やかな会となりました。(栗本)
話は尽きず・・・みなさん、境内で立ち話