あおぞら財団ではここ数年、毎年、環境省職員環境問題史現地研修の受け入れを行っています。今回の研修は2月9日~10日にかけて行われ、環境省職員の方が10名・環境再生保全機構の方が2名、計12名が参加されました。公害患者の池永末子さんのお話、弁護団の村松昭夫先生のお話、「西淀川公害患者と家族の会」事務局長・上田敏幸さんのお話、西淀川のフィールドワークなど2日間に分けて研修が行われました。
まずはお互いの自己紹介からスタートです。
今回の研修に期待することとして、現場に行って、公害患者さんの声を聞いてみたいという意見が多く出されました。
まず、あおぞら財団の林さんから「西淀川公害、地域再生について」というテーマで講義がありました。講義は「戦前の公害といえば?」という問いかけを交え、日本の公害の歴史を振り返ることからはじまりました。全国の公害と公害訴訟の話から、西淀川の歴史と公害や公害患者さんの証言、あおぞら財団の理念について説明がありました。
西淀川公害裁判では環境を再生し、孫や子へ良い環境を手渡すこと目標に掲げました。西淀川公害訴訟の和解金の一部を基金にあおぞら財団が設立されます。林さんはあおぞら財団の役割はステークホルダーをつなぐことであると説明しました。
林さんの講義の次には、公害患者の語り部さん・池永末子さんからのお話がありました。
昔の西淀川・公害の様子、病気の苦しみ、公害反対運動、及び今の健康状態や暮らしについてお話をしていただきました。
池永さんが西淀川に来たのは二十歳すぎの時で、洗濯物や物干し竿やばい煙で汚れ、掃除を欠かすことがなかったそうです。
池永さんは、ご自身がぜん息になる前に娘さんも公害患者さんで、小学校中学校の時は、学校を休んで病院に行かなければならないことも多かったそうです。その後ご自身もぜん息になったことで、子供さんがしんどい思いをしていたことを改めて実感したとおっしゃっていました。
池永さんご自身は未認定患者さんであるため、医療費が実費負担となり経済的な負担が大きかったことから、発作が出ても病院に行くのを我慢して悪化してしまうこともあったそうです。
患者さんにとって、医療費があるかどうかというのは大きなハードルになっており、未認定患者さんに対する救済制度が欲しいというのが公害患者の会の要求にも上がるところである、ということでした。
保育所で先生として働いていらっしゃった池永さんは、仕事に行く前は薬を飲む、仕事中に体調が悪くなった時は吸入器を使ったりしていたそうです。
【質疑応答】
Q:保育所で働いていらっしゃったとのことだが、預かっていたお子さんにもぜん息の子どもがいたのか?
A:自分がぜん息の患者であったため、ぜん息の症状がわかる。そういう子供たちの対応もしていた。
林さん補足:池永さんは小学校に語り部に行っているが、教え子がいる。池永さんがぜん息であったことを教え子達は知らない為、驚かれることがある。
Q:クラスにお子さんと同じ様に公害患者さんだった人はいたと思うが、親同士のつながり
はあったのか?
A:その当時自分が公害患者であるということを言いたがらない、隠す人が多かったためそれほどなかったと思う。
上田さん補足:公害患者に対する差別もあった。そのため、結婚や就職など子供の将来に影響を及ぼすのではないかと考え、自分の子供が公害認定患者であることを隠すこともあった。認定そのものを受けなかった人もたくさんいる。しかし、現場の教員、保健師、養護教諭が集団で話し合いをしてサポートしたというのも西淀川の地域の特徴でもある。子供たちのぜん息が一番多かった時期は、西淀川の地域だけ養護教諭が複数で配置をされたり、空気清浄機をつけたり等の措置がとられた。これらの願いを行政に伝え実現することができたのは患者会、あるいは地域の人たちや教員のバックアップがあったからである。
その後、あおぞら財団の現理事長である弁護士の村松昭夫先生のお話がありました。会場を5階のエコミューズに移して行いました。
村松先生は、日本の大気汚染公害訴訟の経過と内容・環境政策・公害裁判になぜ患者さんたちが取り組んだのかということを患者の方と共に裁判に取り組んだ弁護士の立場から、お話してくださいました。
日本の大気汚染公害裁判は四日市の公害訴訟から始まり、この裁判の判決を契機に公害健康被害補償法が制定されました。この制度は汚染者負担の原則[PPP]に立ったものであり、世界的にも類を見ない環境政策でした。当時日本の至る所で大気汚染が深刻な問題となっており、公害患者の皆さんは患者会を結成等様々な運動を行っていましたが、四日市判決が励ましになり、各地の裁判に影響を与えました。
西淀川の大気汚染は都市型複合汚染であり、被害の責任追及や因果関係の証明が困難であったため、疫学調査や共同不法行為論を利用して裁判を行ったそうです。西淀川の大気汚染裁判の和解金の一部は、公害により破壊された地域再生のためにあおぞら財団の設立に充てられました。環境再生の問題に最初に注目し、行動したのが西淀川であり、後の大気汚染裁判に影響を与えたと述べられていました。西淀川の公害裁判は弁護士主導型ではなく、患者主導型であったそうです。そして、村松先生は、患者さんや弁護士がなぜ長期にわたる裁判を戦い抜くことができたのかということを振り返って、お金のためだけでなく、被害を救済しなければならないという人間的な心情や、患者さん達が自分の受けた被害を次の世代が受けないようにという思いを持ち続けていたからではないかとおっしゃっていました。
【質疑応答】
Q:二十数年間という長期間の裁判を戦うことができたモチベーションとその維持の方法は?
A;弁護士側のモチベーションとしては、弁護士は自分の能力を社会正義に生かしたいという気持ちがあった。また、こういった裁判を皆で協力し、解決していくということは弁護士としても非常に重要であり、その根底にあるのは被害者の方を見て、彼らの思いに報いたいという人間的な心情だったと思う。集団で裁判に取り組んだことでモチベーションを保ち続けることができたと思う。
Q:裁判中に世論を味方につけるためにどのような取り組みを行ったか。
A:裁判が長期化すると、被害や問題そのものが忘れられてしまう可能性がある。そうならないために、マスコミに訴えたり、署名活動を何度も行ってきた。
次に「西淀川公害患者と家族の会」事務局長・上田敏幸さんのお話がありました。
始めに上田さんから、公害患者さんの前田春彦さんの報告の紹介がありました。
上田さんは、当たり前のことが奪われる、回復の見込みがないためその当たり前が不可逆的に奪われることが公害病の特徴であるとおっしゃっていました。上田さんは30年近く患者さん達とともに活動してきて一番大事なのは「対話」であると感じていると述べられていました。『手渡したいのは青い空』という本を作ったのが西淀川の公害被害者と関わった最初だったそうです。これは被害をまとめ、患者の方は何をよりどころに戦っているかということをまとめた本です。本を作った後の役割は、百万署名推進委員長として、裁判を起こした人たちが共有している被害を受けとめて、共感する人を署名という形で増やす運動を行ったということです。136万もの署名を集めたそうです。一方で企業と折り合いをつけるために対話の窓口を作る仕事を行ってきました。対話というのは相手も対話をする意思がないと成立しないため、企業内に対話の意思を持つ人が見つかったことで、和解への道を作ることができたともおっしゃっていました。その時に関わった企業の人の中には今でも交流がある人がいるそうです。
【質疑応答】
Q:数十年にわたる裁判を可能にした患者さんのモチベーションはどのように維持されていたか?
A:「当たり前」が奪われることが一番辛いことであり、自分にはたとえ間に合わなくても、子や孫につらい思いをさせたくないという強い思いがあった。そういった他者への思いやりがあり、それを患者間で共有してきたため、続けることができたのではないか。
最後に振り返りのワークショップを行いました。一日が終わり、気づいたことを話し合って、2日目のフィールドワークに向けて問題意識の近い人達でグループごとに分かれました。
二日目は西淀川のフィールドワークが中心の研修となります。
今回の研修に参加させていただき、自分自身も大変勉強になりました。
公害の被害が人の体だけでなく人間関係や地域コミュニティにも長期間影響を与え続ける根深い問題なのだとあたらめて実感しました。同時に次世代に良い環境を残そうと未来を見据え、戦い、あるいは対話を続けてこられた方達のおかげで今があるのだと感じました。
今回の研修では「共有」が一つのキーワードだったように思います。被害の体験の共有、理念の共有などを通して協力し合い、課題を解決していく。このことは今現在にもある環境問題等を解決する手がかりになるのではないかと考えました。(村山)