※機関誌りべらで連載をしている所蔵資料紹介コーナーの転載記事です(りべら163号より転載)。
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西淀川公害患者と家族の会が裁判提訴を決断
掲載の資料は西淀川公害患者と家族の会(以下西淀川患者会と略す)が編集・発行していた『青空』No25の第1面である。発行日は1977年12月9日。78年4月20日の提訴まであと5ヶ月すこしという時期のことであった。紙面は、西淀川患者会が正式に定期総会(第6回)で裁判提訴を決めたことを報じ、また、残る紙面のほとんどもその関係記事で埋めている。大気汚染公害をめぐっていよいよ真剣勝負、重大な決断を下したという昂揚感と緊張感を感じさせながら、妙に落ち着いた感もうかがわれる。
ちなみに、裁判提訴については1977年夏から秋頃にかけて弁護士たちもその決意を強固にし、裁判になった場合の論点の整理、賠償額、医師会や弁護士仲間に対する弁護団への支援要請、学者・専門家への協力依頼などにも力を注ぎ始めていた。
振り返れば、西淀川患者会は、1972年10月29日、大気汚染による健康被害に苦しむ区内の公害患者自らが公害による大気汚染の解消、被害者に対する充分な補償の実現を求めて結成されたものである。この会が裁判を提訴するについては、結成されたこの年7月に判決が言い渡された四日市公害裁判に励まされたことを知っておかねばならない。四日市裁判の判決内容を検討する中、その内容が西淀川でも問題解決の水準となると考えられた。そこから西淀川でも裁判ができないかという意見と模索が始まったのである。相談を受けた弁護士たちも、青年法律家協会のメンバーを中心に西淀川大気汚染問題研究会を組織し、その意義と可能性また、克服すべき課題など種々の課題を検討し、被害の事実を知っていくこととなる。
この過程でこうした検討を行なっている人びとの正面に現れ、患者さんたちやその支援者の怒りをもたらした問題が政府と財界による窒素酸化物の環境基準緩和への動きであり、地域指定解除の動きであった。裁判はそうした公害問題の後退をめざす動きとの対決という課題も自ら背負いながら始められていくのである。1978年4月20日の提訴に至る道は、まさに、厳しい道への突入を決断する過程であったことを思う。
(資料はエコミューズ所蔵『青空』)