●6月30日(金) ツアー1日目後半:津波被災現場にて
昼食後は釜石観光ボランティアガイド会の藤井静子さんの案内で、釜石の津波被災地をまわりました。
まずは、釜石湾を望む高台にある釜石大観音にのぼりました。ここで湾口防波堤の説明を受けました。釜石湾港防波堤は、「世界最大水深の防波堤」としてギネスブックにも登録された防波堤です。中央の開口部(300m)を挟んで北堤(990m)と南堤(670m)の防波堤でした。防波堤の想定5.6mを上回る津波が襲来、結果的に市内にも波は押し寄せましたが、防波堤が津波の高さを抑えた、到来を遅くした効果はあったとされています。
そして鵜住居(うのすまい)地区の「鵜住居地区防災センター」で、説明を聞きました。
この防災センターは、津波がひいた後に避難者が暮らす拠点避難所として整備されていましたが、市は避難訓練で同センターを避難先にしていました。海から約1・5キロ離れ、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)などを基に、県が最悪の事態を予測して策定した津波浸水予想範囲の外にあったということです。
ここには200人の人が集まったそうです。2階の天井付近まで生波がおしよせ、生存が確認されたのは約25人ということでした。私も来たのは2回目ですが、その時の惨劇を思うと足が震えました。
*詳しくはこちらの記事をご覧ください(2011年3月24日14時54分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110324-OYT1T00651.htm
取り壊しも決まったそうです。建物があることで、その建物に残った津波の傷跡から伝えることができる教訓もあると思うのですが、そこで大事な人を失った人たちの気持ちを思うと難しい問題です。
鵜住居地区には駅もあり、この防災センターのまわりにも民家や飲食店が並んでいたそうです。周囲の建物はほとんど取り壊され、片づけられ土台が残されるのみになっていました。ひとつひとつの建物があった場所に普通の生活があったはず、津波が来た時、そこの人々はどうしたのだろうか、今どうしているのだろうかと思うと、何ともいえません。
大槌町にも向かいました。大槌町は、町役場も津波にあい、被災地の中では唯一首長である町長さんが亡くなった町です。火災も発生したそうです。震災後1カ月後に被災地に視察へ行ったあおぞら財団の職員が、まだその火災の跡が残っていたと話していました。
宿泊場所の宝来館に到着。その後も研修は続きます。
まずはホールで、伊藤聡さんよりお話がありました。伊藤さんは三陸ひとつなぎ自然学校のスタッフですが、宝来館の番頭もしています。津波が来たときの宝来館の様子、避難所としての使われ方などをお話がありました。
つぎに『NPO法人 ねおす』のボランティアスタッフ、もんじぃさんより、翌日のボランティア活動について説明がありました。
『NPO法人 ねおす』は北海道のNPOです。自然体験型環境教育を旗印に揚げ、交流と学びを目的にした「エコツーリズム」の企画運営などを行っています。スタッフの柏崎未来さんが釜石市出身で、自宅も津波の被害を受けたこともあり、震災直後から、釜石に拠点をつくり支援活動をしています。
そしてスペシャルゲストとして、バイオディーゼルアドベンチャーの山田周生さん(HPはこちら)にもお話して頂きました。山田さんは、震災時、たまたま東北におり、そのまま被災地支援の活動を続けています。バイオディーゼルの精製機を搭載した山田さんは、燃料不足の中、物資や人を運搬するなど活躍をしていました。
最後に、宝来館女将、岩崎昭子さんから挨拶がありました。
実は、この日はおかみの誕生日。花束を贈り、みんなでハッピバースデーを歌いお祝いしました。
午後5時、長かった1日目の研修が終わりました。
宝来館の温泉につかり海の幸がふんだんに使われた美味しい夕食を頂きました。
おまけ:夕食後、おかみがなんとケーキを1人1人に用意してくれました。多くの人に花束で祝ってもらったのがとてもうれしかったとのことです。
ごちそうさまでした。おかみさん、無理せずお体を気をつけて新たな1年、がんばってください。
(小平)
※本事業は三菱商事復興支援財団の助成を受けて活動しています。