※機関誌りべらで連載をしている所蔵資料紹介コーナーの転載記事です。
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西淀川公害患者と家族の会(以下患者会と略)が大阪弁護士会所属の若手弁護士に裁判提訴の相談を持ちかけたのは1973年10月のことでした。
じつは、1970年前後のころから大阪の弁護士たちは、深刻の度を増す大阪地域の公害(たとえば大阪空港騒音問題・関電多奈川第二発電所問題・大阪中津コーポ高速道路問題など)を取り上げ、検討や対応を重ねていました。しかし、その弁護士たちが西淀川公害の提訴を正式に決意するまでには、それから4年という長い検討期間を費やさねばなりませんでした。
まずは、それを取り上げる社会的な意義の確認、そして、そのためには何をもって勝訴とするか、誰を相手とするか、論点をどう設定するか、また勝訴までの道程をどう支えていくか、等々、問題を把握するための真剣な検討が始まったのです。
写真の文書は「弁護団資料」と一括される資料のうち、初期に事務局長として弁護団事務局を支えた島川勝弁護士が保管していた複数ファイルの中に含まれています。
西淀川公害訴訟弁護団資料No.3879
文書は、最初に大気汚染による全国の認定患者数が6万余を数える中で、大阪が2万余り、その中で西淀川区が5474人と、格段に多いことを述べ、しかも今なお悲惨な被害を受けていることを指摘します。
そして、こうした状況をもたらした大気汚染の原因は西淀川区を取り巻く大企業の事業所や道路の展開、それを放置してきた国の行政にあるとの結論に達したこと、空気をよごす権限は誰にもないにもかかわらず、国や大企業はその責任をとろうとせず、汚染は継続していることを指摘し、きれいな空気を取り戻すことと被害者の完全救済をめざすこと、法廷の勝利には世論の力が大きいこと、その連携を実現するために多くの弁護士たちの協力を求めると書かれています。
ここには、年月をかけた検討の結果がみごとに集約されていたと言っていいでしょう。
この考え方に到達するまでに弁護士たちは分担して調査と研究を重ね、たとえば、差し止めについての考え方をさらに一段高めようとした論文を残しています。
また、西淀川は古い工業地帯で、一見巨大企業がないようでしたが、その隣接区とも合わせてみるべきだとの見識に到達してきました。この文書には、そうした見識の確立とともに、被害者の声に耳を傾け、大事なことを成し遂げようとする弁護士たちの意欲と識見がありありと示されています。
この延長線上には、近代の大都市形成のあり方に対する批判もまた見えていたのではないでしょうか。
公害地域再生の方向性も感じられる貴重な文書というべきでしょう。
エコミューズ館長 小田康徳
りべらVol.161(2023年2月発行)より抜粋